岐阜県内の暴走族総長に“就任”した杉山裕太郎さん。しかし自己肯定感を持てず、覚せい剤中毒に陥ってしまった。覚せい剤中毒の日々を送る中、杉山さんはどのようにして更正することができたのだろうか? [嶋田淑之,Business Media 誠]
昔の仲間たちや、暴力団関係者が、再度、接近してくることはなかったのだろうか?
「いや、それはなかったですね。覚せい剤中毒の杉山が大学に入ったって聞いて、彼らは『薬のせいで、とうとう脳がやられた』って思ったようですから(笑)」
苦しみながらも、彼は着実に更正への道を歩み続けた。そこには、あの夜以来、どんな時も応援してくれる両親の深い愛情による支えがあったという。大学2年で宅建に合格し、その後、教員免許も取得。卒業時の学業成績は首席だった。
大学生の多くが経験する就職活動は、杉山さんの場合、どうだったのだろうか?
「社員50人くらいの不動産会社に内定をいただきました。でも『岐阜で終わりたくない、やっぱり東京に出て子どものころからの夢だった歌の世界で勝負したい』という思いが募ってきたんですよ。それで入社式を間近に控えたころ、入社辞退を申し出たんです。
すると『35歳になっても芽が出なかったら改めて雇ってやる』って言ってくれたんです。嬉しかったですね」
「オレは親の一言で救われた。今度はオレが歌で人を救う」という不退転の決意だった。
歌で人を救うという夢を実現するために上京
「ヒッチハイクとかして東京にたどり着き、池袋を歩いていたら、何となく岐阜に似ているなあという感じがあって、池袋に住むことにしました。仕事は、時給1100円で看板持ちの仕事をしましたが、なかなか時間が経たないのが辛くてサボッていたら、会社の人に見つかってクビになりました」と苦笑する。
その後、芸能人が出入りするような六本木の店でバーテンをしていた杉山さんだが、ボイストレーナーに恵まれて思い通りに声を出せるようになり、店で歌うようになったという。しかし、夜の生活は心身を消耗させる。彼は昼間の仕事に就くことを決意する。
「外資系金融機関のコールセンターに、派遣で行って、支払い督促の電話を中心とする業務を担当しました。時給が1300~1500円と高い上に、敬語を使えるようになり、私にとってとても良い社会訓練になりました。それが現在の仕事にも大いに役立っています」
このコールセンターという職場、芸能系で世に出ようとする若手にとっては、格好の仕事先のようだ。
「そうなんですよ。シフトの自由が利きやすく、時給も高いということで、若手のタレントとかもたくさん来ていて、そこで、芸能関係の人脈ができていったんです」
コールセンターに週3~4日通いながら、同時にボイストレーニングを受けたり、自分もボーカルの先生をするなどしていた杉山さんにやがて声がかかった。
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