橋下知事の「ケータイ禁止令」がいろいろ話題になっていますね。
社会全体で、便利にはリスクがつきもの、という姿勢が欠落し、それが現象として表れたのが、子どものケータイを取り巻く環境と言うことだけは間違いのない事実です。
子どもたちは、被害者。
この認識からすべて「じゃあどうすればいいか」が始まります。
話を戻して、なんでこの決定に賛成か、というと、短く言えば「ケータイとの接触時間を(強制的に)少なくする方向性に賛成」となります。
ゲームと同じで、持っていると、使っちゃうのが人間です。
僕自身、ケータイ所持者が世の中の・そして同世代のマイノリティーの頃からケータイを持っていますが(所持し始めた頃はメール機能、ありませんでした)、通話料が高かったため「なるべく連絡のときは公衆電話で」と思っていたにも関わらず、持っているとついつい「めんどくさい」が先に出て使っちゃっていましたし。
若年層を見ていると、必要以上に、ほんとに必要以上に…
ケータイに依存していると感じます。
そして、精神年齢的に「依存からの脱却」を「自分の意志で」どうしてもしにくい、あるいは「依存している」ということに気づいていない人が多いのが、若い人たち。
若さゆえ、こればかりは仕方ありません。
というわけで、学校という「教育」をメインの目的とする場では、「ケータイが必要」を上回るデメリットがあると考え、賛成となるわけです。
防犯上の目的でケータイ所持、というのも、すごくよくわかりますが、だからといって“これだけ”で「ケータイ持ち込み禁止に反対」とするのは、保護者の過保護・過干渉色が強いと感じます。
また、本質的には、「ケータイを持っていないと防犯上不安」となってしまっている社会の方が問題で、そんな社会は嫌だ、だから少しでも大人たちで変えられる所は変えていこう、という姿勢を(社会全体で)醸し出したほうが建設的です。
※だからといって「社会が悪いわけで、防犯上不安、と言う論はおかしい」というわけでもありません。気持ちはわかりますし、不安だから持たせる、という行為もあるでしょうが、その行為のみを強行に主張するのも良くない、というダケです。
一方で、「持ち込み禁止」という決定にほっと胸をなでおろし、「これでケータイのことを知らなくていいんだ~」とする学校の先生がいたら、それもまた問題です。
繰り返します、子どもは被害者であって、大人が作ったケータイという利器に子どもたちが弄ばれて被害が拡大している、それは大人が「子どもたちのことを」「ケータイのことを」不勉強だから、なんです。
持ち込み禁止になったからと言って、ケータイはなくなりません。
今回の大阪府の決定を機に、今一度、ケータイと子どもを取り巻く環境について大人たちが真剣に考えて欲しいと思います。
また、この希望だけは、EMAが目指そうとしている姿勢と一致している、とだけは、EMAの「啓発・教育プログラム部会」に参加している身として、申し上げておきます。
続きは会員限定です。無料の読者会員に登録すると続きをお読みいただけます。
- 会員登録 (無料)
- ログインはこちら
関連記事
2008.12.07
2008.12.15