/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/
戦闘部族としての匈奴とサカ人(前二世紀~後一世紀)
中央アジア側のバクトリアで宿敵の大月氏(かつて匈奴を支配していた敦煌のアリマスピア人)が勢力を取り戻したことに対し、匈奴は、シル河北に残っていたサカ人(旧イッセドネス人)を支援して、印欧語族アーリア人(旧マッサゲティア人)の康居を西に押しのけ、本来の居住地であるイシク湖周辺に烏孫(イゥッソン)国を再建させ、大月氏を北から牽制。
しかし、前漢の武帝(141BC~87BC)は、むしろ外交官の張騫を大月氏に派遣して、匈奴の東西からの挟撃を打診。だが、大月氏は、西のパルティアとの対立でそれどころではなかった。そこで、武帝は、前119年、こんどは張騫を烏孫に派遣し、匈奴から離反させて同盟を組もうとするが、烏孫は留保。
同じころ、イラン高原では、セレウコス朝シリアのアンティオコス七世が、パルティアの征服したバビロニアやメディアを奪還。しかし、メディアに反乱が起こり、これに乗じて、前129年、パルティアのフラハート(プラアテス)二世はアンティオコス七世を殺害。
ところが、こんどはパルティア内で、給与未払いに怒った傭兵サカ人が反乱を起し、その鎮圧に向かわされたシリア兵捕虜が寝返って傭兵サカ人側に加わり、同前129年、フラハート二世を殺害。次のアルタバーン一世も、前124年ころ、大月氏配下部族トカラ人に殺されてしまう。
シスタン盆地(アフガニスタン)のサカ人は、混乱するインドグリーク朝に、東のスレイマン山脈を越えて侵入し、前90年ころ、インドサカ朝を開く。また、中国では、前72年、匈奴に攻められた烏孫に、前漢は五万騎の援軍を出し、西側から総勢二十万で反撃。おりからの大雪で匈奴は大敗を喫し、一気に弱体化。周辺諸国も離反し、前漢は、匈奴から内モンゴル、ついで西域も前59年には取り戻した。
一方、パルティアは、ローマとの抗争で弱体化し、大貴族がかってに東方に私領を拡げ、インドサカ朝を吸収して、インドパルティア王国として独立。同じころ、大月氏の内部でも、配下のクシャーナ族(インドからバクトリアに出戻った印欧語族アーリア人のクシャトリア?)が他の四部族を滅ぼして政権を握り、前25年、中央アジアに大国クシャーナ朝を開き、南下してインドパルティア王国からシスタン盆地(アフガニスタン)をも奪う。
中国北部の大帝国、匈奴は、政情不安に陥り、紀元48年、南北に分れて内紛。北のモンゴル高原では、支配下にあった東胡残党の鮮卑(クシァーンベーイ)が盛り返し、後漢の遠征で91年に北匈奴は敗走。一方、南匈奴は後漢に服属して、鮮卑に対する防衛に当たらされる。
歴史
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2022.01.14
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。