/巨人たちの足元で浮かれ騒ぐキリギリスのように、賑やかな有名店、華やかな有名企業で働いて、歌って踊って絵を画いて、それでなにか楽しげに仕事をして、毎日を謳歌しているように思えるかもしれないが、きみはやりがいを搾取されるだけ、神輿を担がされるだけ、ブームが終われば棄てられるだけ。/
つまり、第二次産業までは、おせちでも、自動車でも、モノに「剰余価値」があり、その分配の問題として、組合が騒げば、WFHの連中にもボーナスなどとして分け前を出す余地があった。ところが、第三次産業のブランド価値は、未成の収益で、製作時点では実在していない。それゆえ、名義貸しの権利者のみがその巨大な収益可能性を保持していても、それは見えないし、帳簿にも記載されないし、どこからも不満さえ出ない。だが、それは投資対象として巨額で売買されうる。
もっと問題は、第三次産業のWFHの人間疎外だ。マルクスが指摘したように、第一に、行為からの疎外。自分が行ったサービスや創作でありながら、そのサービスや創作は店や会社のものとなる。第二に、意志からの疎外。自分がどんなサービス・創作をするか、自分自身の行為でありながら、自分自身に決定権が無く、決められたとおり、言われたとおり以上でも以下でもないことしかやってはいけない。第三に、創造からの疎外。名目的にはサービス産業やクリエイティヴ産業に属していても、そのサービス性やクリエイティヴィティには関与できず、プロジェクト全体、組織全体がいったいなにをどうめざしているのか、さっぱりわからない。第四に、人類からの疎外。サービスやクリエイティヴな仕事と言いながら、結局は、自分の人生を潰してカネと交換しているだけで、顧客や観客との人間的な交流は遮断され、互換可能な部品のひとつとして働かされ、会社側から用が無くなれば、ただの無名のだれかとして、ぽいっ。
飲食店でも、ホテルでも、CAでも、テーマパークのキャスト、マンガのアシスタントやアニメーターでも、ゲームクリエーターやシステムエンジニアでも、自分たちが営々として築き上げてきたブランド価値、顧客や観客の信用と満足に対して、コミットメントを持っていない。がんばりを搾取されるだけされて、放り出されたら、終わり。いや、マンガやドラマの原作者ですら、連載の間だけ、放送の間だけのチヤホヤ。それを持ち上げている編集者だって、人気雑誌の編集部にいる間のみに可能な傍若無人の横柄さ。ようするに、のれん、ブランドが圧倒的に強く、みんな、それにぶら下がっているだけ。個人としては、まったく無力。だから、切られたときに、まったく何も残っていない。
まずいことに、第三次産業のブランドは、外見主義を採っている。プロットが同じでも、見た目が違えば、それは違うとされる。それも、大量複製の掛け算商法で、マーケティングとして市場の最大セグメントを狙うから、ちょっと見た目が違うだけの似たり寄ったりのモノ、コンテンツ、ビジネスモデルが次々と立ち上げられ、パワーブランドを追求して、あちこちのヒット要素を寄せ集める。それで、よけいに、どれもこれも似てしまう。こうして、コンテンツの寿命、世代交代が劇的に早まり、名義貸しの巨大ブランドホルダーが、その資金力に任せて、なんでもかんでもとりあえず買いあさっておく、という事態に陥いりつつあるが、一般市民の側の購買力、時間力には総量限界があり、個々のプロジェクトの将来的な収益可能性は、しだいに巨額の買収価格とは釣り合わなくなってきている。
経営
2020.03.08
2020.03.17
2020.06.13
2020.07.09
2021.01.04
2021.02.03
2021.02.13
2021.07.24
2021.12.05
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。