若者と変わらないような視点・視野、境地・思考でいることは恥とされるような世の中。それは、高齢者が尊敬され、期待される世の中でもある。
最後の「アンコール段階」では、コンサートにおいて本演奏が終了した後、演奏者がもう一度軽めの曲をリラックスして演奏するように、気楽な気持ちで、マイペースで人生の最後の余韻を楽しむようになる。これまで続けきたルーチンに淡々と取り組み、季節の移ろいや日常の小さな物事の変化などに喜びを感じる。結果の良し悪しや他者の評価を気にせず、型にはまらず自由である。発言や行動には、経験や知恵、らしさや味わいが感じられ、個性的である。
●成熟(エイジング)の価値
このような段階を踏んで、精神的に成熟していければ理想的だ。身体は衰えていったとしても、幸福が感じられる。逆に言えば、精神的成熟がなければ、身体の衰えに比例するように幸福感は低下していってしまう。身体的な衰えは避けようがないのだから、高齢期の幸福はそれぞれの精神的成熟度に左右されてしまうということだ。その意味では、身体・健康についてはアンチ・エイジングも結構だが、精神的にはエイジングを重ねていく必要がある。
そもそもエイジングには、時間の経過や使いこんだことによって古くはなるが、それによって価値が出る、新しいときにはなかった良さが生まれるというポジティブなニュアンスがある。例えば、ウィスキーの長期貯蔵、ワインや牛肉の熟成、工業製品の慣らし運転、バイオリンなどの楽器を本来の音色や響きが出るように弾きこむこと、これらは全てエイジングと言う。
しかしながら現状は、精神的成熟など考えたこともなく、とにかく老いに抗おうとする人がやたらと目に付く。健康が目的となってしまい、アンチ・エイジングに勤しみ、身体の衰えを遅らせることばかり気にしている人が多い。高齢期ならではの成熟、人間的完成に向かうことなく、単に長生きする人が増えるだけでは、超高齢社会は目出度いとは言えない。高齢者を弱者扱いする(無意識に見下して、場合によっては子供のように扱う)人が多いのも、高齢者自身が精神的に次世代の若い人達と変わらず、その結果、尊敬されるような存在になっていないからではないか。
●高齢者の生き方の変化
とは言え、徐々に変化の兆しはある。死をタブー視せず、自分の葬儀や墓について前向きに考えようとする高齢者は増えてきている。遺影や棺桶を生前に選ぶ人も少なくない。週刊誌を中心に、健康長寿だけでなく死や病気と医療・介護への向き合い方を真正面から取り上げるメディアも増えてきており、相当な反響があると聞く。病院よりも在宅で死ぬ人が徐々ではあるものの増えているのは、死に方を自分で決める人が増えているからだ。
活力ある高齢社会を築くためには、このような流れを加速していかねばならない。50歳を超えたら健康自慢・肉体自慢をするのではなく、どのような境地になってきたか、どれくらい成熟し、人間としての完成に近づいてきているかを考え、会話するのが当然という雰囲気の社会がよい。若者と変わらないような視点・視野、境地・思考でいることは恥とされるような世の中だ。次世代や若者は、高齢者に何を期待しているのか。それは、若々しさというより、むしろ年の功である。若者と変わらないような視点・視野、境地・思考でいることは恥とされるような世の中。それは、高齢者が尊敬され、期待される世の中でもある。
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高齢社会
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NPO法人・老いの工学研究所 理事長
高齢期の心身の健康や幸福感に関する研究者。暮らす環境や生活スタイルに焦点を当て、単なる体の健康だけでなく、暮らし全体、人生全体という広い視野から、ポジティブになれるたくさんのエビデンスとともに、高齢者にエールを送る講演を行っています。