/いくら制度を改革しても、その実施を担うにたる優れた人材がいなければ、実効力は無い。むしろ、真に優れた人材を育てることができば、制度を改革するまでもない。/
74年の大旱魃をきっかけに、王安石はわずか5年で失脚。しかし、政権内部に新法党は根強く残り、混乱を悪化させた。開封の朝廷を追われ、西の洛陽に落ちていた司馬光とそのシンパの「洛党」は、徹底的な反撃を開始し、外野から新法廃止を要求する。一方、河北出身者が多い主流の劉摯ら「朔党」は朝廷に戻って、官僚内で新法党と対立。程顥は、洛陽出身ながら、中央の政争に懲りて、地方官として転々とすることに甘んじ、学問に生きた。蘇軾も、左遷された荒れ地の湖北でなお悠然と詩や書に親しみ、融和寛容な解決を求め、彼を慕う官僚たちが「蜀党」となった。
旧法党は、なにも自分たちの士大夫としての利権を守るためだけに新法に反対したのではない。現実問題として、いくら制度を変革しても、その実務を遂行できる有能な人材は、当時の中国において、地方名家出の士大夫たちのほかに存在していなかったのだ。王安石が新学科挙で在野の逸材を集めようとしたとはいえ、実際の新法党は、従来の士大夫の利得をわがものにして人生の一発逆転を図ろうという、権勢欲に目がくらんだ、うさんくさい小物連中ばかり。学識や公平性、道徳観、指導力という意味では、すでに裕福で鷹揚で、地域での人望を集めている従来の士大夫たちのほうが、はるかにましだった。
もちろん、司馬光も、士大夫ばかりが安穏と裕福になり、庶民が貧しいままで、国家財政が傾くような状況をよしとしていたわけではない。彼は、王安石が中心に据えた『孟子』を、君臣の義を軽んじて革命をも認めている、として批判する一方、「洛学」として、『礼記』(らいき、礼に関する論文集)の中の『大学』を取り上げ、その序の、天賦の才は等しくはありえない、だから世間に秀でた者が庶民を治め教えるべきだ、との節を引いて、王安石の斉民思想を批判。地方振興の原動力として、まさに士大夫たちが必要だ、と主張した。しかし、そのためには、士大夫は物欲を斥け、以下、『大学』に述べられている八条目に従って自己研鑽に努め、ひいては天下を治める気概をも持たなければならない、とした。
一方、同じ旧法党でも、あえて地方官として生きることを選んだ程顥は、自然を愛し、天理を学び、その中に「道」としての一体の気を直観的に感じ取り、庶民はもちろん世界の痛みや喜びを自分のものとする「仁」をめざした。ここにおいて、彼は、司馬光と違って、王安石が理想とした、性善説の仁を解く『孟子』を高く評価し、後に彼の思想は「道学」と呼ばれることになる。また、文人の蘇軾は、『孟子』は嫌ったものの、艱難苦境にあっても動じない内面の強さを磨くことを求め、儒学のみならず、道教や仏教をも学び、三教合一の「蜀学」を興した。
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2010.03.20
2015.12.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。