/いくら制度を改革しても、その実施を担うにたる優れた人材がいなければ、実効力は無い。むしろ、真に優れた人材を育てることができば、制度を改革するまでもない。/
王安石の新学新法
千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業の問題状況ととても似ている。
五代十国時代(907~79)と言うと、なにかとても混乱していたかのようだが、隋や唐のような安定した統一王朝が無かった、というだけで、かならずしも戦乱に明け暮れていたわけではなく、じつはむしろこの時代に、地方ごとの小国がたがいに競って内政充実に努め、地域産業と商業経済が飛躍的に発達した。
979年にようやく宋朝が中国を再び統一。隋唐同様の律令制で国家の体裁を整えたが、賦役(労働徴用)など、もはや産業と経済の実態に合わず、多くの役職が「冗官」として無意味に残存する一方、時代に対応するために「使職」と呼ばれる役職が大量に増設され、官僚の数が爆発的に増大。彼らは、とくに華北で、その免税特権を駆使して官僚と商人と地主を兼ね、地方名家として地域を寄生支配する「士大夫」階級となっていた。この富裕連中の搾取のせいで、庶民は統一前よりも貧しくなって税収も減り、おまけに西北異民族との長引く戦争で国家財政は赤字に転落。
王安石(1021~86、37歳)は一地方官にすぎなかったが、1058年、政治改革を上奏して注目を集め、69年、実質的な宰相に抜擢される(48歳)。彼はもとより新興南部の出身で、華北の士大夫(地主商人官僚)のような利権とは無縁であり、科挙を改革して自分に賛同する有能な若手のみを大量に登用し、これを中央や地方に配置、士大夫たちの旧来の既得権を制限、自立した中小の商人や農民の育成を図る「新法」(「熙寧変法」)を強引に実施した。
王安石が独善的に科挙の正解とした「新学」は、儒学は儒学でも、従来の訓古学のような些末な古典知識の膨大な寄せ集めではなく、古典の一つで周王朝の理想制度を論じた『周礼』(しゅらい)の斉民思想に基づく。すなわち、一国の下で万民はみな等しくあるべきであり、その習俗を統一し、抑強扶弱することこそが義とされる。ただし、天道の聖と人道の仁は表裏一体であり、義に徹してこそ、国や民の利ももたらされる、と考えている。王安石は、この万民習俗の理想として『孟子』の性善説を考え、これを従来の古典や『論語』と並ぶものとして重視した。
旧法党の反撃
この新学と新法党の改革は、当然、旧来の儒学を学んできた既得権側の華北士大夫階級から大きな反発を招いた。その中心となったのが、司馬光(1019~86、51歳)。これに劉摯(1030~97、39歳)、程顥(ていこう、1032~85、37歳)、蘇軾(1037~1101、32歳)らの中堅若手が加わり、「旧法党」と呼ばれた。王安石は配下の新法党とともに対決の姿勢を崩さず、旧法党を次々と地方に左遷し、権力を独占して、改革を強引に推し進めた。
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2010.03.20
2015.12.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。