学生さんは勉強しているとき、社会人の方は仕事をしているとき、 「めんどくせー、この作業。やってられるかよ!」 と感じること、あるかと思います。
しかし、この「めんどくさい」という感情、そして「やってやれるかよ!」と他に向けて発する表現…この一連の中に、「できる人」と「できない人」の違いが明確にでると思っています。
「めんどくさいこと」が「めんどくさい、けれど必要なこと」だったとします。たとえば
<学生>
・英単語や歴史用語の「暗記」
・数学の(必要最小限の)数式処理
・長い課題文を読まされること
<社会人>
・経理伝票の精算
・大量のメールのチェック
・多くの人の共感を得て進めなければいけない案件で、多くの方の意見を聞くこと
などでしょうか。
これらを「やってられない!」と言い張り、そして「やらない」人は、「できない人」ですね。
学生の例では、暗記、数式処理、「読む」という行為、それがないと次のステップへ進まないわけです。
社会人の例では、お金の計算はめんどくさいけど厳密にやるのがビジネス上大事ですし、メールのチェックをしなければ大事な案件を見落とすかもしれません。
そして、多くの人にネゴシエーションするのを怠ったり、最近の典型例では「一斉にメールして“意見ください”などと、すべてにおいてメールですませようとする」などしたら、連絡しなければいけない人との意思疎通が不十分なときもママあります。
必要なことを、ただ単に「手間がかかる」というだけで、やってられない!と言う、そして実際にやらない…という人は、まず、できる人ではありません。
一方で「めんどくさいこと」が「めんどくさい、そして必要のないこと」だったとします。
学生の例であれば、無駄に長い数式処理なんかがそうですね。
そして、お分かりだとは思いますが、「できる人」はこの「めんどくさいこと」に対して
「なんとかして“めんどくさい”ことを回避する方法」
を考えようとします。
これに対しが、「できない人」は、「なんとかして“めんどくさい”ことを回避する方法」を考えるのが逆にめんどくさいので、めんどくさい方法をずーっととり続け、「解答に時間がかかる!→嫌だ!」という感情に結びつきますね。
学生の勉強だったらいいんです。
どっちの手法をとっても、実力のつき方として跳ね返ってくるのは自分だけですから。
ただ、社会人で、
「なんとかして“めんどくさい”ことを回避する方法」を考えるのが逆にめんどくさい
という「できない人」は困りもの。
同じ労働をずーっと続け、生産性を上げようとせず、ひどい人になると、考えることを放棄した上の忙しさにもかかわらず、忙しい、できない、やれないを主張するようになりますから。
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