/とりあえず明日、勝って生き抜くことだけに全力を傾け、その始末は後でどうにか、という戦国時代と違って、天下泰平の江戸時代となると、大名も、後先の遣り繰り、世評の言い訳けを考えておかないことには、収支や名目が合わず、幕府が課する御役目も果たせない。そんな時代の変革期にあって、朱子学を学んだ新世代の武士たちは、武道はともかく、中間管理職として求められるレスペクタビリティの素養があった。/
よく学統が、などと言われるが、そんなもの、戦国末期以降、意味をなさない。たしかに各地に私塾ができたが、先生に弟子入りなどしなくても、いくらでも本で朱子学を学ぶことができてしまったのだ。冒頭の藤原惺窩にしたところで、朱子学者に弟子入りして習ったわけでなく、江戸初期の滋賀の中江藤樹なども、朱子学者に付くことなく、本から朱子学を学んだ。幕府お抱えになった江戸の林羅山は世襲学統を作って守ろうとしたが、京都五山、足利学校、臨済諸寺、薩南学(五山系薩摩藩)、南学(土佐藩)などの方が、朱子学においても歴史も古く、レベルも高く、空回りするばかり。
実際、林羅山は、御用学者でもあり、彼の朱子学からして大きな問題があった。彼は、「上下定分」として、鳥が飛び、魚が泳ぐのが天理で、人間も尊卑貴賤の身分は、乱されえず、乱してはならない、とする。しかし、朱子学が多くの人々を魅了した理由は、朱熹が、修身居敬に努めればだれでも聖人になれる、としたところにこそある。テキストを権力で独占隠蔽支配できる時代であったならともかく、この爆発的な出版ブームで朱熹本人の漢語原文も直接に確認することができる時代にあって、林家朱子学が歪曲のインチキ御用学であることは一目瞭然。朱子学に無関心で、幕府に媚びて立身出世を願う者はともかく、真に朱子学の道をとる者は、自力で書物や現実から朱子学、そして自然科学や社会科学を学んでいった。幕府の八代将軍吉宗も、林家を相手にせず、むしろ市井の朱子学者たちの実学を奨励し、林家湯島聖堂も廃止しようというほどの零落。
しかし、市井の朱子学者たちの学究の姿勢は、朱子学そのものにも向かう。ろくに本を読もうともしない陽明学はともかく、朱子学の内部において、朱熹の思想の独断的ないかがわしさは、中国においても、日本においても、大きな問題となっていった。すなわち、四書だけでなく、その他の中国古典も容易に入手できるようになると、朱熹がどう言おうと、『論語』や『孟子』と同時代の他の文献での語用、当時の歴史的な事実を厳密に再確認する考証学、古学が発達し、道学、とくに朱熹のように四書を統一思想として強引に解釈することには無理があることが明らかになってしまう。この過程において、朱子学の解釈もばらばらになり、百家争鳴。
1790年、寛政異学の禁によって、老中松平定信が古学などを禁じ、林家御用朱子学のみを正統として、湯島聖堂も拡大、昌平坂学問所を新設した。とはいえ、どこの藩も、科挙で門閥を排する、などというような、自分たちの足元を危うくするようなことをするわけもなく、いくら正統を定めても、それが科挙の正解というわけでなければ、だれもそんなものを重視しない。それどころか、羅山の大義名分論はかえって、戦時継続を理由に天皇を差し置いて政権を簒奪し続けながら、米欧夷狄の来襲になんの手も打てない幕府の不義無能を白日の下にさらしてしまい、市井からの尊皇攘夷、倒幕運動に火をつけることになってしまう。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)
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2010.03.20
2015.12.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。