/とりあえず明日、勝って生き抜くことだけに全力を傾け、その始末は後でどうにか、という戦国時代と違って、天下泰平の江戸時代となると、大名も、後先の遣り繰り、世評の言い訳けを考えておかないことには、収支や名目が合わず、幕府が課する御役目も果たせない。そんな時代の変革期にあって、朱子学を学んだ新世代の武士たちは、武道はともかく、中間管理職として求められるレスペクタビリティの素養があった。/
戦乱の時代が終わり、いくら武芸にひいでていても、せいぜい指南役くらいしか仕官の道がない。一方、朱子学を修め、ややこしい漢文法令を読んで、カネ勘定を合わせられる者には、おおいに出世の可能性が開けた。なにより朱子学を修めた若い武士たちは、その教えどおり、身辺も、行動も、きちんとしていた。経営者に代わって産業革命の現場を監督する中間管理職のレスペクタビリティ(尊敬されるべき資質)として、これこそ、もっとも時代に必要とされた素養だった。
武芸道場以上にあちこちに大小さまざまな私塾(個人的弟子入りから教室チェーンまで)ができ、前途を求める下級武士の子息たちが朱子学を学ぶようになってきた。なかでも御用朱子学者は、幕府や藩に直接のコネを持つので、幕府や藩からの家禄は中の上程度にすぎなくとも、日ごろさして主君の御用のあるわけでなし、私邸での私塾で、おおいに繁盛し、それでまた朱子学を目ざす若者たちが増えた。さらにまた、本の爆発的な普及によって、先生のいない地方などでも、独学で朱子学を学び、実践することができた。
なぜ朱子学だったのか
正直なところ、江戸前半において、朱子学が何であるか、など、わかっている主君も、若者たちも、ほとんどいなかったのではないだろうか。
儒学では、新しい学派ほど、より古い本物だ、と主張し、過去の繁栄の神話を捏造する。その最初、紀元前五百年ころの孔子からして、古代には整然とした黄金の礼治時代があり、それを復興することこそ、豪族たちの力づくの武治戦乱を終わらせる方法だ、と説いた。しかし、古代礼治など、孔子の妄想にすぎず、その黄金時代の冠婚葬祭・接待饗応がどんなものだったのかすら、よくわからない。
隋唐の科挙で儒学が、などという話も、あやしい。この官僚登用試験では、政策、詩賦、法律、算術、演説、時事のような一般教養と実務能力が問われたが、実際の任官は、身なり、言行、演説、判断という曖昧な基準で決められ、古い地方豪族の子弟が圧倒的に有利だった。しかし、実力のみで官僚となった韓愈(768~824)は、修辞過剰な貴族的文体の氾濫に対して、簡潔明快を旨とする古文復興運動を興し、古い諸子百家の文章を模範とし、これらの一つとして孔子の『論語』なども、新官僚の「士大夫」たちの間で高く再評価されるところこととなる。
だが、これで儒学が確立した、などということはない。儒学もなにも、孔子が主張した礼治には、あいかわらず実態が無かった。孔子も、その弟子たちも、歴史の中では、結局、実際に国家典礼に関わる地位まで登用されたことなどなく、また、彼らの聖典となるべき黄金古代の国家典礼を説明する『礼経』などというものは最初から存在しておらず、やむなく『周官』(周の官僚制度の説明)、『儀礼(ぎらい)』(士クラスの典礼)、『礼記(らいき)』(制度典礼に関する論評集、「経」より下の「伝」)の三つをもって、『礼経』に代えていた程度。
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2010.03.20
2015.12.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。