武士道:その神話と現実(1/3)

画像: photo AC: walrus eggman さん

2016.05.30

ライフ・ソーシャル

武士道:その神話と現実(1/3)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/高度経済成長とともに、日本のサラリーマンの理想像として、「武士道」を語るビジネス書や自己啓発書が大量に粗製乱造されるところとなった。そのほとんどすべてが、自分の恣意的な思想を、時代劇の通俗イメージに仮託したものか、せいぜい新渡戸稲造『武士道』邦訳ないし極論の山本常朝『葉隠』を敷衍したものであって、史料的にも、文献学的にも、およそ学術考証に耐えるものではない。/


だが、井上自身が生まれながらに武士道主義者であったとは言い難い。幕末に大宰府の医師の息子として生まれ、長崎で英語を学び、できたばかりの東京帝大を経て、文部省で「東洋哲学史」の編纂に携わり、東京帝大助教授となって84年にドイツへ官費留学(28歳)。しかし、同じ年、農商務省の内村鑑三(1861-1930、23歳)、東京帝国大学農学部学生の新渡戸稲造(1862-1933、22歳)がそれぞれ別個に、キリスト教の縁故で米国へ私費留学している。


90年に帰国後、井上(34歳)は東京帝大哲学教授の任に就く。一方、同年、内村(29歳)も第一高等中学校の教員となるが、翌91年、発布された「教育勅語」奉読式で天皇御名に対する敬礼を軽んじ、不敬事件として大きな問題となる。井上は、これを激烈に非難し、『勅語衍義』(1891)において、列強に互して独立を保つ東洋の小国として、孝悌忠信の徳行、共同愛国の義心の必要性を繰り返し説くとともに、『教育と宗教の衝突』(1893)を出版して、キリスト教そのものが「国家的思想」に反する(p.72)と激しく論難した。


一方、内村は、一高を解雇され、憔悴した妻も病死。出版人徳富蘇峰(1863-1957、30歳)の支援を受け、この間に、『JAPAN AND JAPANESE』(1894)、『HOW I BECAME A CHRISTIAN』(1895)などを英文で執筆した。注目すべきは、前著において「代表的日本人」として西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の五人を取り上げ、その略歴を紹介したことである。新渡戸は、91年に帰国後、札幌農学校教授となったが、病気療養のために休職し、米国に滞在。この間に『BUSHIDO』(1900)を出版。これが、各国語に翻訳されるほどの国際的大ベストセラーになった。(ただし、邦訳は1908年。)


おりしもこのころ井上も陽明学、古学、朱子学、山鹿素行などの研究を行っており、キリスト教と武士道との親縁性を説く新渡戸の『BUSHIDO』は、井上に大きな危機感を与え、その内容が日本国内に広く知られてしまう前、翌1901年には急遽、欧米に比類なき日本民族の精神としての『武士道』を講じ(p.7)、『教育勅語』こそそれであるとする(p.14)。ただ、民族の精神であるがゆえに、祖師はおらず、ただそれを説き伝えた「権化」として山鹿素行がいる、とする(pp.15)。そして、すでに98年に東京帝大学長となっていた井上は、その位の利をもって文献を猟歩。『武士道叢書』全三巻を編纂し、1905年に出版。その意図するところは、キリスト教で恣意的に歪曲された新渡戸の独断独善の武士道論に対して、日本民族の精神としての本来の武士道を、客観的な文献典拠をもって学術的に示すこと、つまり、武士道の「聖書」を作ることにあった。

武士道:その神話と現実(2/3) http://www.insightnow.jp/article/9286 に続く

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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