年配は若者に学び、若者は年配に学ぼう。 そんな社会からは、最も多くの価値生産がなされるはずです。
こちらの記事はかなり多くの方に読んで頂けたようです。1人でも多く「教育」について思いを張り巡らせるキッカケになれば嬉しいです。
この記事では、若者の「できないところ」にスポットライトを当てた形になりましたが、若者の「できるところ」は逆に、年配の人たちが学ぶべきところも沢山あります。
「温故知新」
という言葉がありますよね。
故き(ふるき)を温ねて(たずねて)新しきを知る…とっても良い言葉だと感じます。
年配の方は、「温故」、つまり、「既得知識の延長線の改善・研究を続けること」が得意、一方で「知新」、つまり、「革新的なアイディア(大袈裟に言えばパラダイムシフトにつながるようなもの)」を生み出すのが苦手。
若者の方は、まったくその逆。
ここに年配の人間と若者との乖離が生まれます。
「温故」も「知新」も大事なのに、お互いの欠けているところだけ見つめてしまう、とでもいいますか。
まず、大事なのは、歩み寄り。
既得知識だけで物事を判断しがちな年配の人は、新しい発見・アイディアを若者から受けたとき、「私にはわからないから」と倦厭せず、理解しようと努めなければいけません。
「年寄りにはわかんねーよ」と決め付けがちな若者は、古き知識を加えることで今の文化にさらに深みのあるトッピングを加える努力をしなければいけません。
ここに初めて「温故知新」が誕生するわけですから。
もう一つ。
年配から見た若者、若者から見た年配の、相手の欠けているところを見つけたら、堂々と意見することも大事だと思います。(ただし、「批判」にならないよう注意が必要ですが)
年寄りじみているかな~とか、若い自分から生意気かな~とか、必要以上に思う必要はありません。
まっとうな人間であれば、意見を受け止め、斟酌し、さらによい自分を目指そうとするはずですからね。
※そのときの「意見」に対し「批判」で返す人は、その段階で「あ、この人と話しても何ら生産性がない」とスルーしちゃえばいいわけですし。
こうやって両者がかみ合うと、社会に新たな価値が次々と生まれていくものじゃないでしょうか。
さて、「若者のできないところ」を以前の記事で取り上げましたので、今度は「すげぇ~」と思うところを。
僕がこの10年くらいの間で、一番「画期的発見」と感じるものの1つは、
「携帯電話の写メ」
なんです。
僕は写真はトンと興味がないので、予想にすぎないのですが、恐らく多くの年配の人間は、カメラつき携帯電話をはじめてみた時
次のページ自らが「温故」「知新」のどちらが欠けがちか…常に意識す...
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