誰かを、何かを、支援する時、人はどんな動機で行為に移るのでしょうか。
学費に困っている学生さんと、そんな学生をつなぐサイト。
学費支援プラットフォームとしてstudygiftが立ちあがったのは5月17日のことでした。
それから1週間余り。賛同や批判の声がネット上を席巻しました。
「炎上マーケティング狙っていない」--studygiftに集まる賛同と批判の声(cnet.japan)
studygiftはなぜ暴走したか 「説明不足」では済まされない疑念、その中身 (1/2)(ねとラボ)
本件に限らず…
僕は、直接相手を批判するのであれば、批判対象の事柄の当事者(関係者)であるか、または、批判の反論にもお付き合い(コミット)するほどの時間投入をする覚悟を持つべきだ、という姿勢です(感想を述べる、程度なら全然構わないかと)。
ですので、本件そのものに対しとくに何か物申したい!というき、というわけではありません。
最後にも述べますが、studygiftについては、「サイトを見て、支援したいと思った人がすればいい(僕はしないけど)」以上の感情をもちませんでしたし。
一方、本件を見て、世の中で行われている様々な寄付活動を思い出しながら…
「なぜ人は、支援したいと思い、そして実際に、寄付などの形で支援行為をするのだろう?」
「支援するとき、自分にはどんな気持ちが根底にあるだろう?」
そんなことを考えたくなりました。
そして。支援するときというのは、
「困り方への共感」×「つながりたい感」
が、ある一定ラインを超えたときじゃないかなあ、と思いました。
「困り方」というのは、何に困っているか、とか、支援することに実効性があるかどうか、などのことで、そのポイントに対し共感出来れば、支援したいと言う気持ちは高まるのではないか、ということになります。
たとえば、友人が「明日の生活費にも困っている、だから支援してくれ」であれば支援しますが、「明日、大切な競馬のレースがあるんだ、だから支援してくれ」であれば、友人であっても嫌ですよね。
また、「自らの支援可能な範囲」が、「共感」という感情に影響します。
1,000円の支援だったら可能、でも100万円の支援だったら無理…というように。
震災ボランティアにしても、長期的に行って助けになりたい、という気持ちがたくさんあっても(この視点だけ見ればとても共感度は高いわけですが)、仕事などもありどうしても伺えない、という事情が、「支援可能な範囲」の視点から共感度を低めてしまう理由になってしまいます(辛いことなのですが…)。
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