「東北大 抜群教授に給与奮発」という見出しの記事を読んで思ったこと。
これもかなり古いが、「東北大 抜群教授に給与奮発」という見出しの記事が、2008年3月13日の朝日新聞に載った。
記事リードには、《「給料には無頓着」といわれる研究者たちを、それで確保することができるだろうか。》と、東北大の試みを疑問視するようなくだりがある。
記事本文を読んでいくと、国内の教授さんたちは、確かに給料よりも研究環境重視のようだ。
「給料のことを考えたら初めから研究なんかやっていませんよ」と話す、阪大の審良教授のような方もいらっしゃる。
一方、「給料より研究環境、というのは日本だけ」「上乗せが月20万円と聞いて、みみっちいと笑ってしまった」と話す、米カリフォルニア大の中村教授のような方もいらっしゃるわけで。
国語力的には、「給料には無頓着なのか無頓着じゃないのか、どっちじゃい!」という突っ込みを入れたくなる。また、「中村教授、20万円を『みみっちい』、なんて言い方は、しないほうがいいと思いますよ」とも。
文句なしの研究環境を与えられて、かつ給料もいっぱい、というのがベストなんでしょうか、ここで思ったのは、研究者の「業績」と給料との関係について。
誰かが莫大な経済的富を手中にしている、しかもそれはオレの研究のおかけじゃないか!と研究者が感じたとき、「もっと給料くれよ!」となるんでしょう。やっぱり人間、こういうときの心のエネルギーが、最も強い。
どんなに画期的な発見をしたとしても、それが一文のカネも生み出さないのであれば、おそらく研究者は「もっと給料よこせ!」とは言わないような気がします。
もし、研究者の給料が「業績」に比例するのだとしたら、では「業績」とは、経済的富を生み出すものに限られるのか、ということです。
文科系なんて、ねえ。経済学は、まだいいかもしれませんが。
理科系で、莫大な経済的富を生み出す仕事をした研究者は、たとえば文学部の研究者に対しては、どういうふうに感じているんだろう。「おれの給料の百分の一でいいじゃん」とかかな。
まあ、「カネにもならん研究をしとるなあ」と思われていることは確かだろうが。
そんなんで、大丈夫なんですかね。
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2008.10.22
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