大分県での教員採用をめぐる汚職事件が、世間を賑わせている。まったく情けない話だが、ここでは、この事件の詳細にはふれない。私が、ここで問いたいのは教師という職業に関して、以前とは全く違う職業観になってしまったことを、読者とともに考えたいからだ。
聖職者でもなく、普通の職業でもなく‥
大分県での教員採用をめぐる汚職事件が、世間を賑わせているが、今回のような事件は、大分県だけの問題ではないように思う。教員採用試験での身内に対する贔屓は、2次試験では以前から噂されていたことだ。
今回の事件が、異常だとすれば、それが、1次試験から贔屓が組織的に行なわれ、また多額の金品が動いた点だろう。この文章で汚職事件を取り上げたいのは、事件性に言及するためではない。それよりは、教師という職業に関して、以前とは全く違う職業観になってしまったことを、読者とともに考えたいからだ。
その昔、教師は、聖職と言われた。他人の子どものために、必死になって面倒をみるからだ。時には、自己犠牲を厭わないで、子どもと寝食をともにするのが、教師の役割だった。教師として生きるということは、人間としての存在が、子どもの前でいつも問われることであったはずだ。
だから、教師は聖職といわれ、尊敬をもされていた。
しかし、そういう聖職観が、教師を苦しめていたことも事実だ。だから、ここ30年余り、教師も職業の一つであって、それ以上でも以下でもないという風潮が広まり、今日では教師は一般のサラリーマンと同じ地位に着いているように思う。
が、しかし、それでも教師という職業には、他の職業とは違う「職業倫理」が、求められるのだと私は言いたい。
それは、子ども達に、自分の生き方を示しながら、接しなければならないという特殊性があるからだ。そういう特殊性を自覚しないまま、普通の職業だと思ったところに、今回の汚職事件の土壌があるように思う。
教師として生きる、ということ。
今回の事件で贈賄容疑で逮捕された夫婦はともに教師で、夫は教育委員会の幹部、妻は、小学校の教頭であった。妻だって、あと2年か3年すれば、校長職に任命されただろう。教師として豊富な経験も積み、ベテランとして他の教師の模範にならなければならない二人であった。
その二人が、自分の娘のために、贈賄をはかった。娘は、このことを知っていなかったと思うが(知っていたとすれば、こんなに馬鹿げたことはない)、この夫婦は、教師が、子ども達に大きな影響を及ぼす存在だと経験から学ばず、自覚もしていなかったのだ(学んでいたら、こんなことをして娘が喜ぶとは思わないだろう)。
二人は、たとえ不正を犯しても、娘が教師という職に就けばよいと思っていたのだ。採用さえされれば教師という職業は全うされると思っていたのだ。
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2008.07.19
2008.07.29
合資会社 マネジメント・ブレイン・アソシエイツ 代表
1961年、神奈川県横浜市生まれ。 現在、合資会社マネジメント・ブレイン・アソシエイツ代表。 NPO法人 ピースコミュニケーション研究所理事長。