/平安の貴族文化の最盛期、源信が『往生要集』をまとめ、絶頂にあったはずの藤原道長、頼通親子が浄土教に心酔。彼らの背景には、いったいなにがあったのか。/
藤原道長(966~1028)もまた、かろうじて疫病の死線を越えて氏長者(貴族の頭領)となり、1004年に源信に帰依している。一般に、三女を後一条の皇后(中宮)に据え、太皇太后・皇太后・皇后の三つをともに自分の娘たちで占めた1018年十月十六日の夜の一族の宴席での「この世(夜)をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」の歌(藤原実資『小右記』)をもって、その傲慢な専横が難じられるが、しかし、それは中秋の九月ではなく晩秋の十月、それも満月を過ぎた十六夜(いざよい)。もはや欠け始めた秋風の中の夜半の月をみなと眺めつつ、すでにありもしない望月をあえて詠って、「欠けたることもなし」ではなく、欠けたることもなしなどと思ってしまっている(已然形=完了)から、我が世だなどと思い誤る、と戒める。この倒置による意義反転の技巧にこそ、源信に心酔した道長らしい、陰影と夢幻に満ちた趣きがあった。
この道長の時代に、紫式部が『源氏物語』を著す。後に本居宣長がこれを「もののあはれ」を評し、一般に、しみじみとした情緒などと解されるが、宣長が言うのは、源氏の君と藤壺の不義の恋のように、儒仏の理非を越えた人のありようであり、現代風に硬く言えば、理性で判別する以前の実存、ということだろう。967年に律令の施行細則「延喜式」が施行されたものの、人事も政策も恣意的に左右される荘園制摂関政治にあって、律令官僚制そのものが瓦解してしまっており、こんな建前を厳守せんとする者の方が嘲笑の対象にすらなっていた。その一方、心のままに不義や罪業にも甘んじる新しい生き方は魅力的な驚きであり、それがやがて勝負と外連に命を賭ける武士の登場を導く。
はたして道長の懸念、新時代の気風は、子の頼通(992~1074)の時代に早くも現実となる。関東がふたたび平忠常の乱(1028)で荒れ、これを収めた清和源氏が武士として台頭。養女を取ってまで入内させるも男子は生まれず、百年来の外戚としての摂関政治の根幹が揺らぐ。あいかわらず洪水や暴風、疫病が繰り返され、1032年には富士山も噴火。おりしも、最澄の著作とされる『末法灯明記』から、1052年をもって、釈迦没後1500年の末法の世とされ、実際、1051年、離反を図る東北の豪族に対して終わりの見えない前九年の役(1051~62)が起こり、頼通もまた浄土教を信奉して、道長の別荘、宇治殿を阿弥陀仏を祀る壮麗な平等院鳳凰堂に改修。
歴史
2021.09.26
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2022.10.27
2023.06.06
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。