/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/
J ウマイア朝の方も、ウマル二世の後は、シーア派だとか、異民族改宗者だとかで、ぐちゃぐちゃでしたよね。
おまけに、北のコーカサス地方(黒海とカスピ海の間)ではテュルク系遊牧民ハザール人と、東のイラン高原では現地イラン人と、西のアフリカ北岸でも現地ベルベル人との戦いが生じ、それで、ムハンマドの叔父の子孫とかいうアッバース家が、国内の不満の高まりを利用して革命を扇動し、750年、王朝が交代。
13.1.2. アッラシードとシャルル・マーニュ(八世紀後半)
アッバース家は、政権を取ると、東のメソポタミア(現イラク)に首都を移し、異民族改宗者にもアラブ人と平等な権利を認め、むしろ積極的にペルシア人親衛隊で身辺を固める一方、ウマイヤ朝残党やシーア派を弾圧、オリエント風の豪奢で独裁的な帝国を築きます。
また、アッバース帝国は、その創成直後の751年に、西に勢力を拡大してきた中国、唐朝と、天山山脈の北側、中央アジアのタラス河畔の戦いで衝突。でも、その後、その南側のチベット帝国が、安史の乱(755~63)で弱体化する唐朝を侵略。このため、唐朝は、反対側のアッバース帝国と協調してチベット帝国を牽制し、シルクロード貿易を繁栄させました。この連係によって、アッバース朝は、紙や火薬、印刷術、そして羅針盤という四大発明を手に入れ、海のシルクロード、海上貿易も発展させていきます。
J ちょうど日本で奈良の大仏ができたころの話ですね。フランク王国から、アッバース帝国、唐まで、シルクロードでつながっていたから、その東の端の日本で大仏に献げられた正倉院が異国風の財宝だらけになるわけか。
ウマイヤ家の王子アブド・アッラフマーン一世(731~788)は、北アフリカへ逃走。イベリア半島に入って、コルドヴァ市に後ウマイヤ朝を興します。彼がもたらしたイスラム帝国の壮麗で豪奢な文化は、野蛮な原住民たちを圧倒し、多くの改宗者を集め、勢力を拡大。しかし、頑迷なキリスト教徒の反乱も相次ぎ、また、フランク王ピピン三世は、アッバース朝と連携して、後ウマイヤ朝を挟み撃ちにして、半島南部に追い詰めていきます。
そして、八世紀後半、ピピン三世の子、カール大帝、シャルル・マーニュ(c742~王68~帝800~14)が、領土を拡げて最盛期を迎え、800年、教皇によってローマ皇帝とされ、フランク王・ローマ教皇と東ローマ帝国との対立は決定的となります。そして、イスラム帝国でも、アッラシード(763~位86~809)がアッバース朝第五代カリフとなって、領土を拡大、フランク王国と連携し、東ローマ帝国を攻撃侵略。カール大帝も、東ローマ帝国からクロアチアやボヘミア(現チェコ)まで勢力拡大。
歴史
2021.08.20
2021.09.09
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2022.06.19
2022.07.03
2022.07.16
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。