AIが人間の職を奪うかどうかの議論において真の問題は、AIの高度化ではなく、むしろ人間のAI化です。つまり、人間がAIと同じ土俵に下りてしまっていて、物事の処理能力で競走をすることです。それを防ぐのは能力の高次化です。
◆AIの進化が問題ではなく、人間のAI化が問題
「AI(人工知能)の進化によって、自分の仕事がなくなるのではないか」という議論が最近よくわき起こります。著書『ウォールデン 森の生活』で知られる19世紀の思想家、ヘンリー・デイヴィッド・ソローは次のように書いています───
「私たちはもはや、みずからつくった道具の道具になってしまった」。
AIが人間の職を奪うかどうかの議論において真の問題は、AIの高度化ではなく、むしろ人間のAI化だといえるのではないでしょうか。つまり、AI自体は道具であり、それを人間が賢く使いこなすことができれば危惧や不安は起こりません。ですが実際は、人間のほうがAIと同じ土俵に下りてしまっていて、やれ計算能力はどっちが上だとか下だとか、やれ記憶能力はどっちが優れているか劣っているかの競走意識になっているわけです。
閉じたルール・閉じたシステムの中での合理的処理作業なら、もはや人間は機械に勝てません。しかし、幸運なるかな、深遠なるかな、この世の中はオープンなシステムです。そこには、正解のない問いがたくさんあり、ときにルールの外に答えをつくり出す醍醐味があり、非合理的な決断がむしろ幸福を生むことだってあります。そこにおいて、人間がAIの確固たる主人になれるなら、手段であるAIの進化はまったく歓迎すべきことです。逆に、ソローが今から160年も前に言及したとおり、人間が道具の道具になり下がってしまうと問題は深刻になります。
きょうは能力の高次化という観点から、人間が持つかけがえのない能力とは何か、事業・仕事・キャリアにおける自分の存在意義は何かについて考えたいと思います。
◆ある能力には長けていても……
組織の中には、特定分野の知識が豊富な人、ある処理技能に長けた人、修士号や博士号を修めた人、利発的でIQの高い人などがいます。しかし、そうした人たちが必ずしも仕事で高い成果をあげたり、独創的な提案をしたりするわけではないことを、私たちはいろいろと見聞きしています。
「タコ壺(ツボ)的に深い知識があるがそれを他に展開できない」
「言われた作業は器用に処理できるが、何か新しい仕事を創造することは苦手である」
「才能に恵まれているのに、何かと組織への不満を言い、自分ごとで取り組まない」
こうした人たちは、いわば「能力がありながら、能力がひらけない/ひらこうとしない」状態に陥っています。もっと厳しく言えば「ある次元の能力保持で満足していて、それより高い次元での能力発揮に怠けている」。なぜこういう停滞が起こるのか―――それを考察するために、私が持ち出したいのが、「メタ能力」という概念です。
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2009.10.27
2010.03.20
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。