文化放送「The News Masters TOKYO」のマスターズインタビュー。 ビジネスマンだけでなく組織に属するあらゆる層からの支持を受けて16万部超えのベストセラーとなっている『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)の著者でもあり、劇作家・演出家として長く活躍を続けている鴻上尚史さんにパーソナリティのタケ小山が迫る。
ろくでもないリーダーほど精神論しか語らない
「命を賭けろ!」とか「気合いだ!」「ガッツだ!」なんてことしか言わないリーダーは「ろくでもない」とばっさり切り捨てる鴻上さん。
「リアリズムを語るのが優れたリーダーです」
『不死身の特攻兵』の中にも印象的に描かれているが、「美濃部正さんという少佐は非常に優れたリーダーでした」という。
特攻の末期、ほとんどヒステリー状態のようになっていた軍隊では、時速200キロしか出ない布張りの練習機(赤とんぼ)で特攻に出ろ!という命令が年配の参謀たちから出された。
そのとき、最も年少の少佐であった29歳の美濃部さんはこう言った。「赤とんぼでの特攻が有効だとお思いでしたら、箱根の上空で私はゼロ戦一機で待ってますから、みなさんは50機でやってきてください。私が全部撃ち落として見せます」。
そして、美濃部少佐が部下に対して行ったのは厳しい飛行訓練だった。
目視出来ない夜間の飛行訓練は、着陸と離陸だけでも通常は500時間から1000時間の練習を必要とするが、それを100~200時間で習得させるような非常に厳しい訓練を行った。その際の美濃部少佐の口ぐせは「お前たち、この訓練に音を上げるなら特攻に出すぞ」だったという。
「今、何が必要で、そのためには何をすべきかを分析できるリーダーであった」「すごい勇気、そして非常に合理的だ」と鴻上さんは称賛する。
戦争だから死ぬことは構わない。
ただ、死に甲斐を求めている。
赤とんぼでの特攻を拒むのは臆病だからではなく、部下を戦に出すからには効率的な戦いをしたいんだと言い続けた美濃部少佐。ただ、残念なことに美濃部少佐の発言を参謀たちは悠然とタバコをくゆらしながら無視した、と記録には残されている。
組織は変わらなかった。赤とんぼの特攻は送り出された。
この話にショックを受けて「何も変わらなかったんですか?」と問いかけるタケ。
鴻上さんは「全体は変わらなかったが、少しは変わったこともあった。美濃部さんは、やはり希望だったと思う」と教えてくれた。特攻を推進した大西滝次郎も、美濃部さんにだけは特攻を命じなかった。一時期は命じられたが、最終的には「お前はいかなくていい」と。
現場においても変化があった。
佐々木友次さんの属する陸軍の特攻機は、爆弾だけを落とすことができないように機体に800キロ爆弾が縛り付けられていた。
敵機を爆破するためには機体ごと突っ込むしかなかったのだ。敵機を見つけられなかったり機体の不備で不時着することになったりしても爆弾を外すことができなくて無駄死にするしかなかったという。
佐々木さんは第一回目の特攻のメンバーで、その時の隊長の岩本さんはその状況を憂慮して、機体から爆弾を外して落とすことができるような細工を整備兵に頼んでくれた。この岩本隊長もリアリズムを大切にできる優れたリーダーだが、残念ながらくだらない上官のくだらない命令のせいで、命を落とすことになった。
「調べれば調べるほど、怒髪天を衝いて情けなくなるエピソードがごろごろしています」と嘆く鴻上さん。
「でも、岩本隊長が亡くなった後も、整備兵は佐々木さんの機体から爆弾が落とせるようにし続けてくれたんです」。これが、現場の力学だ。
現場の人は、みんな、特攻という戦法には意味がないと感じていた。
800キロ爆弾をくくりつけていたら、優秀なパイロットがみんな死んでしまうじゃないかと怒っていた。
特攻の初期はベテランのパイロットに出撃が命じられることが多かった。
飛行士としてプライドを持って急降下などの練習をしていたのに、突然「急降下しなくてもいい、ぶつかれ」と言われて、パイロットたちはものすごく怒ったのだ。そのことを現場は知っていて、力学が働いた。整備兵たちは毎回ちゃんと爆弾を落とせるように調整をして送り出してくれたという。
「企業でもありそうですね。トップはだめだけど、現場はちゃんと機能している」とちょっぴり苦笑するタケであった。
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