人間は古来、営々と労働してきました。「労働」というものをどうとらえるか。これは人により、国により、時代によりさまざまです。労働は当初、生命維持のためにやらねばならない苦役という否定的な見方が主流でした。時代が進むにつれ、骨折りとしての労働は次第に多様なとらえ方をされはじめます。
「生業としてのサラリーパーソン」をまっとうするために必要なことは、組織から言い渡される大小の無理難題を忍耐強くこなし、担当業務に勤勉であること。戦後の日本もこの会社員の勤勉さによって支えられてきました。
ところが今日では、仕事が自己実現や社会貢献の機会であってほしいと願う人たちが増えています。それは忠誠心の向け先が組織から、仕事そのものへ変わってきたともいえます。こうした流れにあって組織は、従業員に対し、いかにやりがいのある仕事や有意義な仕事動機を与えられるかが重要な課題となってきています。
とはいえ、組織側が働き手を酷使する流れも依然としてあります。不当な低賃金、悪質な労働環境で従業員を働かせるいわゆる「ブラック企業」の存在は、いまも頻繁にメディアで報じられています。現代版『蟹工船』物語と言っていいかもしれません。また、企業に勤める従業員が、みずからを「社畜」と呼ぶこともあります。組織の都合のいいように飼い慣らされた自分を自嘲的に揶揄する言葉です。その意味では、古代から延々と続く苦役としての労働の姿がいまだそこにあります。
◆ポスト現代~食うための労働から解放されても人は働くか?
これから先、人びとの労働観はどう変わっていくでしょうか。社会生活を支える3K(汚い・きつい・危険)的な労働が世の中からなくならないとすれば、低賃金で働かされる「苦役としての労働」もなくならないのでしょうか。
もし、ある国がベーシックインカム制度を導入して、全国民に最低限度の収入保障を与えるようにすれば、人びとはいわゆる「食うための仕事」から解放され、自己実現や社会貢献につながる仕事に勤しむようになるでしょうか。あるいは、いっそ働くこと自体をやめてしまうでしょうか。
ちなみにこの問いに対し、マルクスは共産主義による理想国家が実現した暁には、人びとはもはや一つの分業に縛られない状態を想像しました。つまり、朝には狩りをして、昼過ぎには魚を獲り、夕方には家畜を飼い、食後には批評をする生活の可能性です。「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という社会がそこにはあります。
ところがイギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは少し違った想像をしたようです。彼は1930年に書いた「孫の世代の経済的可能性」の中で、これから100年後には食うために働くという経済的な問題は解決され、人類は初めて、その自由になった状態をいかに使うかという問題に向き合うだろうと予測しています。
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2009.02.10
2015.01.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。