/徳川は、三河土豪の連合軍にすぎなかった。ところが、信長によって武田家を失った甲州武士団は、家康を新たな後継者とすることによって秀吉と戦い、勝って江戸幕府を興した。その強さの秘密は、信玄以来の絶対的な中央集権と騎馬機動力の電撃戦にあった。/
ところが、秀吉との外交を担っていた古参の石川数正(1533~93、52歳)が、85年、秀吉側に寝返る。もともと徳川軍は三河土豪の連合体で、徳川家といえどもその土豪の一つにすぎない。つまり、数正らの西の岡崎衆(旧西三河衆)と坂井忠次らの東の浜松衆(旧東三河衆)がまずあって、これらを安堵する戦闘部隊としての家康と本多忠勝らの旗本先手役を支えている三備え編成であり、これらに加えて、84年までには武田残党を率いる井伊直政(家康の小姓、23歳)の「赤備え」が第4の精鋭部隊として整えられ、この武田残党部隊が小牧長久手の戦いで秀吉との戦端を開いてしまった。ここで数正が寝返ったとなると、秀吉に対する西の守りを失い、この連合が総崩れになる。
このため、家康は、徳川軍の主力戦闘部隊の方を旧武田軍法の中央集権的な大番制に大きく再編。すなわち、旗本御家人を6つ(後に12)の大番に分け、徳川親族が大番頭となり、それぞれ約500名を率いて行動する。各大番の内部には、旗、鉄砲、長柄(槍)、騎馬、大番頭・伝令、弓、小荷駄(兵站輸送)などの隊を持っている。これは近代軍制の大隊(バタリオン)に相当する兵科総合部隊であり、この単位で行動することによってこそ、一つの戦闘を完結して遂行することができる。ただし、これは、家康が軍制改革で武田残党を徳川軍に取り込んだ、というより、河内源氏以来、五百有余年の経験と練度を誇る120万石・兵員4万名の武田残党軍が54万石・兵員1万5千名の旧三河土豪連合軍をに飲み込み、信玄の後継者として改めて家康を担ぎ上げた、という方が実情に近い。
90年の北条氏に対する小田原征伐で、家康はさらに関東120万石も手に入れ、計300万石。もっともこのころには、秀吉は北陸から北四国をも配下に納め、400万石・10万名規模に膨れあがっていた。そして、秀吉は、数正に信州松本城を築かせ、家康との対決を準備し始める。一方、家康は、95年、武田残党軍の小幡景憲(1572~1663、23歳)を間者(スパイ)とし、諸国から情報を集め、1600年、関ヶ原の戦いに勝つ。03年、征夷大将軍の位を得て、幕府、つまり、都の宮廷ではない野戦陣幕の軍事臨時政府を江戸に設ける。
この後、家康は、景憲を大阪城の中にまで潜り込ませ、1615年の大阪の陣の後に、1500石の旗本に取り立てた。景憲(43歳)は、信玄家法ほか、旧武田軍に関する多様な伝承を集め、『甲陽軍鑑』全23巻にまとめた。これが江戸軍学の元となったが、旧武田軍滅亡は1582年、景憲が10歳のときのこと。もちろん景憲自身は、関ヶ原から大阪の陣まで、たしかに諸国行脚し見聞を広めていたが、軍人というより、あくまで間者。彼の説く軍学は、実戦経験の裏打ちの無い、物知り「軍学」。ここから話はおかしくなっていくが、それはまた次の機会。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大 阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)
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2009.11.12
2014.09.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。