/朱子学は、二程子から理気二元論を採ってくることによって、新法新学の一国斉民思想を退け、士大夫の必要性を説いた。しかし、理気二元論は、二程子の弟の程頤によって、体(無心)の中正、「敬」という話に矮小化されてしまっていた。陽明は、朱子の文献の中に二程子の兄の程顥の万物万民一体の「仁」という壮大な構想を再発見し、それこそが朱子晩年の真説と考えた。/
これに対し、陽明はデカルト的だ。何の物質も無い純粋な世界など無い。なんの内容も含まない純粋な心など無い。無心なら心も無い。むしろ心は、つねに内容に付随して起きる。○○がうれしいとか、かなしいとか、○○が無かったら、うれしさ、かなしさの心もあるまい。心の無い心を中正にする「敬」など、意味が無い。
陽明は、朱子の文献の中に、程頤が中庸論では説明し切れなかった兄の程顥の壮大な万物万民一体の仁の思想を見つけてしまった。ここにおいては、程顥がなぜ旧法党であるにもかかわらず、司馬光と違って『孟子』を高く評価したのかも明らかになる。つまり、万民だけでなく、万物もまたすでに性善なのだ。つまり、物質の世界こそが、そのまま天理を体現しており、本来であれば、善なる世界になるようになっている。
人もまた、本来であれば、性善であるから、世界の喜びを喜びとし、世界の悲しみを悲しみとするようにできている。そして、自分が何をすべきかの答えは、外界の物に問うまでもなく、自分の自然な心の中にこそある。しかし、もしそうでないとすれば、心が理を外れてしまっている。それは外界の物に対する性善な人間の知覚と情感、「仁」が欠けているからだろう。だが、人間はむしろおうおうに善、つまり、自分のすべきことを知っていながら、行わないのではないか。そこにこそ大きな問題がある。良知を実行と合一させなければならない。
同様に、世界もまた性善であるから、本来であれば、理に沿って、すべてうまくいく。しかし、ときにそうでないことがあるとすれば、つまり、理に適っている心に沿わないことが起こるとすれば、それは、世界の方がなんらかの原因で理を外れてしまっている。それを知ることができた以上、善なる理の道に戻るように、それを正してやらなければならない。
朱子において『大学』の八条目の最初の「格物」は、物にいたる、物事の道理を知る、という意味だ、とされたが、陽明は、これを、物をただす、であるとした。また、朱子においては、まず格物、そして致知、さらに平天下にまで修養を広げていくと考えられていたが、陽明においては、もとより平天下以下すべてうまくいっているはず。そうでないとすれば、国をただし、家をただし、身をただし、そして、物をただす。つまり、良知を致す、善を実行することに尽きるとされる。
ここにおいて、知は、他人ごとのように冷めた物事の博覧知識ではなく、自分もまた当事者であるという善悪の倫理意識のことだ。三綱領についても、その善悪を知る良知こそが明徳であり、それを知っているだけでなく、それを明らかにする、実行する、ことが明明徳であるとされる。また、朱子がかってに書き換えた「新民」を原文通りの「親民」に戻し、これを万物万民一体の仁を持つべきことであると考え、止至善は、天地本来の性善の状態を保つこととした。
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2015.07.17
2009.10.31
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。