/朱子学は、二程子から理気二元論を採ってくることによって、新法新学の一国斉民思想を退け、士大夫の必要性を説いた。しかし、理気二元論は、二程子の弟の程頤によって、体(無心)の中正、「敬」という話に矮小化されてしまっていた。陽明は、朱子の文献の中に二程子の兄の程顥の万物万民一体の「仁」という壮大な構想を再発見し、それこそが朱子晩年の真説と考えた。/
弟程頤による兄程顥の歪曲伝承
兄の程顥は、洛陽出身、業績抜群ながら、中央の政争に懲りて、地方官として転々とすることに甘んじ、学問に生きた。彼は、自然を愛し、天理を学び、その中に「道」としての一体の気を直観的に感じ取り、庶民はもちろん世界の痛みや喜びを自分のものとする「仁」をめざした。ここにおいて、司馬光と違って、王安石が理想とした、性善説の仁を解く『孟子』を高く評価した。
一方、弟の程頤は、もともと科挙に失敗して官僚にすらなれなれず、在野に埋もれていた。にもかかわらず、厳格な修養によって、だれでも聖人君主になれる、との屈折した考えを抱き、古代儀礼に執着拘泥した。旧法洛党の司馬光は、この程頤を好み、自分の後継者として強引に新皇帝の側近に送り込んだものの、現実の政治状況を無視したまま、学識の信念のみに基づいて古式回帰を強硬に主張したために、1186年、中央から排除されることになる。
兄の程顥は鷹揚で、広く人望があり、学問においても天才的だった。しかし、85年に死去。おりしもちょうど中央政界から放逐されてしまった弟の程頤は、兄の学説を伝えることで門人を集めた。しかし、だれでも修養で聖人君主(ただの立派な君子ではなく実際の政権を執る天下人)になれる、という考えに固執する彼には、天下全体に神経(「仁」)を張り巡らし、万物万民と喜怒哀楽を共にする、などという兄の超人的な思想を受け入れることができなかった。そこで程頤は、『礼記』の中の『中庸』という論考から、体(無心)が天理に適う中正であればいい、という「敬」の話に矮小化してしまった。
朱子もまた、理想と現実の違いを理気二元論で説明するに当たって、二程子の思想を参考にし、とくに弟の程頤の中庸のアイディアを修養の中心においた。しかし、これには当時から、陸象山(1139~93)が疑問を呈し、二程子の兄の程顥と同様に、力動的な万物万民一体の「仁」を説いて、朱子の静止的な無心の中正、「敬」を批判している。
事上磨錬:善悪の良知を実行実現する
朱子はカント的だ。理気二元論は、いっさいの物質を含まない純粋な世界、「太虚」を想定し、その理に比して、現実は物質による乱れがある、とする。また、心についても、いまだなんの内容を含まない純粋な体を想定し、これが気で乱れていると、実際の用としての情が欲にゆがむ、としている。だから、実際の物事に接する前に、なんの内容をふくまない純粋な体の段階で、気が理に中正する「敬」に整えなければならない、と考えた。
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2015.07.17
2009.10.31
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。