/一国の下に万民は等しくあるべきであるという新学新法は、特権的なエリートである士大夫(地主商人官僚)の存在を根底から否定するものであった。このため、朱子は、万民が等しく性善であるにしても、現実の人間には優劣があり、そのエリートこそが庶民を治め教えるべきだ、ということを理論づけようとした。/
中正の敬であなたも天下取りの聖人になれる!
さらにアリストテレス哲学(錬金術)と同様、朱子学は、体/用を区別する。体は潜在する性質(デュナミス)、用は内実ある現象(エネルゲイア)。抽象的な愛というのは体、具体的にだれだれが好きというのは用。現実の事物は、それぞれ、体として、あらかじめ理(類)の性と気(個)の性があり、用として、具体的に多様に発現してくる。しかし、この用が理から外れてしまうのは、理の性よりも気の性の複雑な干渉に引っ張られてしまっているから。たとえば、厳格で知られる裁判官でも、自分の息子の犯罪に刑を科すとなると、甘くなってしまいがち。
そこで、朱子は、用が理から外れないためには、すでに体の段階で、気の性が理の性に合う(中正)ようにしておくべきだ、とする。この問題は、人間の場合に甚だしい。人間は、理の性としては性善であり、仁義礼智信の五常を持っており、これが四端の情(惻隠・羞悪・辞譲・是非)という用として発現するが、五気の性に惑わされると、陰陽の理の中正を外れて、欲に落ちる。そうならないためには、心身各部の気のばらばらな乱れを理の性に収斂する「敬」に徹していなければならない。
「敬」は、具体的には『大学』に記された格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八条目のステップで修養できる、とされる。ところが、格物については『大学』に説明が無い。最初に『大学』を取り上げた司馬光は、物を格子で隔絶する、つまり、物欲を抑えることとしたが、朱子は、物に当たる、実際の事物を探求することであるとした。こう解釈した朱子の根拠ははなはだ怪しいが、とにかくこれで中国に自然科学、社会科学が生まれた。(といっても、朱子の言う事物の探求は、二次的な古典文献を知ることで、実証的な経験主義まではまだ遠い。それでも、具体的な事物に関する知見は劇的に増大した。)
こうして八条目に努めるのは、『大学』の三綱領、明明徳・新民・止至善を実現するためである。明明徳とは、明徳を明らかにすること、格物・致知・誠意・正心・修身によって、明るい徳、理の性の模範を人々に示す。こうして、徳を斉家・治国・平天下と広げていくことによって、新民、民を新たにし、止至善、最上の善、つまり、理の状態を保ち続ける。『大学』の本文では「親民」なのだが、別の場所に「新民」というのがあるので、朱子はかってに、これは「新民」のまちがいなのだ、と決めつけた。もともと『大学』は王帝のために書かれたもので「親民」のままで正しかっただろうが、朱子のような名目職は自分の領民など持っていないので、話が合わず、気にくわなかったのだろう。
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2015.07.17
2009.10.31
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。