/男色は戦国時代以上に江戸初期に爆発的に流行した。武功で出世する道は途絶え、その一方、体制整理で大量の無頼浪人や無役の下級武士が溢れていた。ここにおいては、美少年のうちから将軍や藩主の寵愛を受け、大役に抜擢されるしか、「武士」として生き残り、昇進出世する方法がなくなってしまったからだ。/
1637~38年の島原の乱を最後に、戦乱は終わってしまった、武功を挙げて出世する道は途絶え、武術は、展覧試合など、余興見世物の芸事になってしまった。その一方、街にも村にも、体制整理で大量の無頼浪人や無役の下級武士が溢れていた。ここにおいては、美少年のうちから将軍や藩主の寵愛を受け、大役に抜擢されるしか、「武士」として生き残り、昇進出世する方法がなくなってしまった。おまけに、世襲家督のあるまともな中級武士でも、役方(勘定方など)はともかく、番方(警備担当)は、日がな登城しても、武道で体を鍛えるほかにすることもなく、暇に任せて同輩との男同士の色恋沙汰に明け暮れた。
春日局の家康直訴で将軍継承から外された家光の弟、徳川忠長(1606~34)は、駿府・駿河・遠江、計55万石の与えられるも、春日局一派に疎まれ、乱行の末、34年、自刃。その配下の160石の中級武士、柳沢安忠(1602~87)も浪人。しかし、48年、家光四男綱吉(1646~1709、2歳)付となり、上野館林15万石で勘定頭として活躍。その庶子長男、吉保(1559~1714)は、64年、藩主綱吉に謁見、以後、その寵愛を受けることになる。80年、綱吉が第五代将軍となると、これとともに江戸入りし、88年新設の「側用人」、92年には川越藩主・老中格、97年、近衛権少将として老中より上席に。ついには、甲斐駿河15万石。
『葉隠』の著者として知られる山本常朝(1659~1719)も、柳沢吉保と同年生まれ。下級藩士老年の子で、9歳で佐賀藩主鍋島光茂(1632~1700、36歳)の小姓となり、その寵愛を受け、晩年まで光茂に仕えた。殉死こそ法令で禁じられたが、その死後も光茂への愛慕の念止まず、愛しい主君様のために命を懸けて恋い焦がれることこそが武士道だと、真顔で言う。
男色と朱子学体制
大義名分を重んじる官学の朱子学からすれば、家格を無視した抜擢からして好ましいこととも思われず、まして陽と陽の男色など、理にかなうはずもない。同じく朱子学を官学とする李氏朝鮮から吉宗襲職を祝う通信使として訪日した申維翰(シンユハン)は、日本でのあまりの男色流行に驚き、同行する案内役の日本の朱子学者、雨森芳洲(1668~1775)に問い質したところ、「ふっふふ、あなたが、まだその楽しみを知らないだけですよ」と言われて、ぞっとした、という記録が残っている。
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2015.07.17
2009.10.31
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。