/農家は田分けを防ぐために、家督は長男単独相続。だが、武家は、あくまで実力本位で、一族の中でもっとも威光のある者が「長者」の地位を継承する。ただし、それ以外の家も、それ以前の家格を保って存続し、それどころか、兄弟でどんどん分流並立していく。田んぼとちがって、勢力は全国にいくらでも拡げられるからだ。/
近年、大企業の創業者や中興者の後継問題に失敗して、経営がガタガタになってしまう話をよく聞く。どちらが正当か、などということは、筋論では決まらない。対外的な実力威光がすべてだ。
たとえば、江戸幕府。将軍家、などと言うが、そんな血脈は実在しない。将軍は、御三家・御三卿という巨大な徳川松平一族の中の、その時々の「長者」が務めた。徳川家康の長男の信康は、家康により切腹を命じられ、次男の秀康は、以前に豊臣家へ養子(人質)に出され、将軍職を継いだのは三男、秀忠。つまり、徳川家は、しょっぱなから長男相続などやっていない。
秀忠の長男は夭逝し、次男の家光が第三代将軍。第四代の家綱はその長男だが、男子断絶。弟である次男は夭折。となると、三男の甲府藩主綱重。しかし、これも家綱より前に死去。それで、館林藩主の弟(四男)綱吉を養子に。しかし、この男子も夭逝で断絶のため、兄綱重の長男、家宣が第六代。長男死産、次男・三男も幼死で、その四男で幼少の家継が第七代。とはいえ、これも3歳で死去(1716)。
家格順序で言えば、次は尾張家徳川継友(24歳)。しかし、小さな館林藩なら、その少ない藩士を幕府の旗本御家人にも取り込めるが、巨大な尾張家の大量の藩士たちが江戸に乗り込み、尾張を直轄領とするとなると、混乱は必至。それで、家康十男の末裔の紀州家四男ながら当主(藩主)となっていた吉宗(32歳)が、紀州藩を従兄に譲って存続させ、家継の末期養子(死没直前に縁組したことにする)として第八代将軍に。同様に、第十一代将軍の家斉も、一橋家からの養子。第十四代、家茂(いえもち)は、紀州家から、次の第十五代、慶喜は水戸家出で一橋家を経て将軍に。
その前の戦国時代の織田家ともなると、跡目争いはもっと壮絶だ。室町末期、織田一族では、尾張守護代の清洲織田大和守家信友がトップ。ところが、その三奉行の岩倉織田弾正忠家信秀が勢力を拡大。1551年、信秀が亡くなると、軍才の無い長男信広、行状の悪い次男信長(17歳)ではなく、三男信行(信勝、15歳)が「弾正忠」を名乗って、清洲織田大和守家信友もこれを支持。しかし、次男信長は、「上総守(かずさのかみ)」などという、より上位の官位(律令上は存在しえない、中二病?)をかってに自称。54年、信友が主君の尾張守護斯波義統を暗殺すると、翌55年、次男信長は信友を殺害し、清洲織田大和守家を断絶させて清洲城主に。同じころ、信長の義父斉藤道三の美濃においても、家督を得た長男の義龍が実弟たちを殺害、実父道三までも暗殺。信長は、道三末子を斉藤家当主に立てて対抗。三男信行は、この機に乗じて次男信長の暗殺を謀り、長男信弘も、義龍とともに次男信長の清洲城襲撃を計画するが、いずれも失敗。翌57年、次男信長は、三男信行を暗殺、長男信弘を臣従させ、さらに58年、岩倉織田伊勢守家も滅し、これでようやく織田信長は、織田一族のトップとなった。(しかし、この内紛で、一族と言っても織田家は信長直系のみが本家になってしまい、本能寺の変の後の清須会議で再び四家分流が図られるも、勢力衰退は避けられなかった。)
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2010.03.20
2015.12.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。