ナポレオンが乗っていたのは白馬かラバか

2016.02.02

仕事術

ナポレオンが乗っていたのは白馬かラバか

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/革命の夢破れたジャコバン画家ダヴィッドは、ナポレオンの寵愛を得て、その威光を広めることに努めた。一方、七月王政下のドラロッシュは、大学の職を失い、新婚の妻を亡くし、困窮悲嘆の中、ある奇妙な老貴族の訪問を受け、やたら注文の多い絵の製作を依頼される。/


 1839年、イタリアから帰国したヴェルネは、ドゥアルデシュの『ナポレオン物語』(1827、444ページ)に精悍なナポレオンの挿絵を大量に添えた本(799ページ)を出し、フランスにナポレオンの一大リバイバルブームを引き起こす。不人気のルイ・フィリップ王は、このブームを取り込もうと、翌40年、ナポレオンの遺体を聖ヘレナ島から掘り起こし、凱旋門を潜るパレードを繰り広げ、パリの軍病院へ改葬。そんな中、1843年、ドラロッシュは、17歳も年下のルイーズと強引に結婚。ところが、その年、アトリエ内でイジメ自殺事件が起こり、ドラロッシュは大学辞任を強いられてしまう。おまけに、新妻ルイーズも45年、31歳の若さで死去。その死の姿さえ、父ヴェルネと夫ドラロッシュがあい争って描くような状況だった。


 ドラロッシュは生活に困窮し、心底も憔悴しきっていた。そんな彼のもとに奇妙な老紳士が訪れた。オンスロウ伯(68歳)。これといった特徴もない英国貴族だが、じつは熱狂的なナポレオン・マニア。彼は、ドラロッシュが5年前に描いた絵のことをよく知っていた。それは、彼が結婚前、後に彼の義父となる先輩ヴェルネのナポレオン礼賛を皮肉った作品、『フォンテーヌブローのナポレオン』(1840)だ。1814年3月31日、退位を迫られた皇帝の姿。でっぷりと太り、頭ははげ上がり、不満と野心が心中に渦巻いている。ある意味では、それは当時のドラロッシュ自身の姿でもあった。しかし、あの作品は、グーピル商会を通じ、ナポレオン嫌いのドイツ人に売られたはず。ナポレオン・ブームのいま、彼がそんな絵を描いていたことがフランスで知れれば、いよいよ彼の立場は悪くなる。


 オンスロウ伯は、ドラロッシュをヴェルサイユ宮に連れて行く。そこには、1802年版の『聖ベルナール峠越え』の複製が掲げられていた。そして、伯は、事細かな蘊蓄とともに、ドラロッシュに、その描き直しを依頼した。仕事を失い、秘密を握られてしまっているドラロッシュは、断ることなどできない。こうして、もう一枚の『聖ベルナール峠越え』(1950)ができた。ここでは、ナポレオンは愛馬マレンゴではなく、地元農民から借りたラバに乗っており、マントを翻すどころか、しょぼくれた防寒具に身を包んで、雪と氷の細道を不安そうに進んでいる。


 この絵もまた何枚も作られ、主な1つはルーブル美術館、もう1つはリバプール・ウォーカー美術館に納められている。そして、これらの絵を根拠に、ダヴィッドの絵はプロパガンダ(宣伝)であり、実際はこんなものだった、と広く語られている。が、問題は、アルプスを知らない英国人オンスロウ伯の蘊蓄と指示がどこまで真実の歴史や地理の考証に基づくものだったか、ということだ。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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