/革命の夢破れたジャコバン画家ダヴィッドは、ナポレオンの寵愛を得て、その威光を広めることに努めた。一方、七月王政下のドラロッシュは、大学の職を失い、新婚の妻を亡くし、困窮悲嘆の中、ある奇妙な老貴族の訪問を受け、やたら注文の多い絵の製作を依頼される。/
たしかに、1788-89年の冬は大雪で、春になって雪解け水で交通網が寸断され、この年にフランス革命が起きる。98-99年の冬も記録的な寒さで、翌秋にナポレオンがクーデタで政権奪取。また、ナポレオンがモスクワ遠征に失敗したように、1805年から1820年にかけても、氷河期と言えるほどの酷寒。1848年もジャガイモが疫病の中、ヨーロッパは冷夏で大変だった。しかし、逆に言うと、1799-1800年の冬は、じつはこの小氷期の中ではきわめて例外的な暖冬だったのだ。もとよりナポレオンは、コルシカ島、つまりアルプスの南側の出身で、現地の状況を適格に掴んでいた。
かくして、この年は雪解けも早く、5月13日から先発の工兵隊を出して道の整備をさせたうえで、快晴の5月20日にナポレオン本隊が峠を越えている。このあたりの住民がラバを使っていたのは事実だが、それはもともと貧しいからであって、この後に続けて広大なロンバルディア平原を駆け抜けるつもりの巨大ナポレオン軍が敵地に入ってから大量の馬を再調達しているヒマのあろうはずもなく、むしろ彼はあえて最初から馬で強引な峠越えをして、敵の不意を突く電撃戦をしかけたのだ。実際、ヴェルネの前任の在ローマ・フランスアカデミー総裁テヴナンの『フランス軍の聖ベルナール峠越え』(1806)でも、大量の馬が描かれており、ラバなど一頭もいない。それどころか、むしろこの初夏の季節は残雪のおかげで、大砲をソリで引くことができる唯一のチャンスでもあり、ナポレオンの軍略のうまさが見て取れる。
つまり、1800年のダヴィッドの絵に劣らず、1850年のドラロッシュの絵もまた、ナポレオン・リバイバルに湧くフランスを貶めるための大英帝国の国際的プロパガンダ。もちろんナポレオンが馬上でマントを翻していた、などということもないだろうが、5月の下旬にもなってまともな峠道が雪と氷に閉ざされてしまっているわけでもない。ナポレオンだけが、世間のこのような思い込みの間隙をついて、適格に現実の地の利、時の利を読んでいたからこそ、乾坤一擲の勝負に出ることができた。実際の現場の現実を調べてみもせず、アルプスの峠、と言っただけで、雪と氷、ラバに防寒具の絵の方が真相だろう、と簡単に思い込んでしまうヤツには、ナポレオンのような大胆な勝利を得ることはできまい。思い込みを越えられるかどうか、それが君の峠だ。
(詳細は、拙著『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』で。)
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)
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2009.10.27
2008.09.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。