/信長の清洲城は、家康によって尾張国府が名古屋城に遷された後、川の氾濫と新田開発で跡形無くなった。幕末になってようやく史跡として保存顕彰しようという動きが起こり、宮内庁の御料地とされた。にもかかわらず、伊藤博文は、その真上に東海道本線を敷き、史跡を徹底的に破壊し尽くした。/
その後、この重要な史跡、清洲城址は、まるで何か呪わしいものを結界で封印するかのように、さらに新幹線の線路、名古屋第二環状自動車道と、必要以上に踏みつけられ、いよいよ跡形無きものとされた。清洲町制百周年を記念して、1989年、対岸に鉄筋コンクリート製の「清洲城」のようなものがまったく新規に建設され、観光博物館として利用されている。しかし、本来の天守台は、まさに東海道の線路の真下あたり。そもそも、信長のころには無かった五条川などというものが、強固な河川改修とともに、かつての城郭の中心を南北に貫き、これらの川と線路、道路で縦横に切り刻まれてしまっている以上、信長のころの清洲城とその城下町の繁栄の様子は、いまとなっては思い浮かべようもない。
google mapにNetwork2010作成の「清洲城下図」を重ねたものhttp://network2010.org/nc400/castle/
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)
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2009.11.12
2014.09.01
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。