全日空は堺港から飛び立った

画像: 日本航空輸送研究所:麒麟号(1936)

2015.11.05

開発秘話

全日空は堺港から飛び立った

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/かつて南蛮船が到来した堺港で、1903年、事実上の万国博覧会が開かれ、これをきっかけに、ここに壮大なレジャーランドが築かれた。そして、1922年、タクシー会社社長、井上長一は、この港から、払い下げの飛行艇を使って、日本最初の民間航空会社を飛び立たせた。この会社こそが、後に世界へ羽ばたく全日空となっていく。/

 米国ライト兄弟がエンジン飛行に成功したのが1903年。この年、日本では第五回内国勧業博覧会が開かれた。内国勧業博覧会は、1877年、2月来の西南戦争に共感する全国の失業士族に新たな企業興産の立志の奨励するものとして、内務卿大久保利通、元老院議官佐野常民らによって企画されてきたもの。そして、1903年の第五回は、日本が工業所有権保護のパリ条約に加盟したことにより十四の諸外国も参加。米国からは最新の自動車8台なども展示され、事実上の日本最初の万国博覧会となった。


 これは、一般には大阪天王寺公園で開かれたことになっているが、じつは、かつてザビエルらを乗せた南蛮船が到来した堺港、現大浜公園が第二会場となり、東洋随一とされる巨大な水族館などが建設され、多くの人々を集めた。この賑わいは、その後も途絶えることなく、1912年、南海電鉄が支線を延長。夏には海水客が訪れ、海水温泉「潮湯」も開業、岸壁には壮麗な木造五階建ての豪勢な観光旅館が建ち並び、遊園地に動物園、公会堂、納涼大桟橋、さらには余興の少女歌劇団と、一大レジャーランドとして活況を呈した。そして、実験途上のラジオさえも、試験放送が供され、公園内のどこでも聞くことができた。


 一方、1911年、所沢にようやく日本最初の飛行場ができ、17年、羽田にも飛行場ができた。しかし、これらは、当時、当然ながら陸軍の基地であり、民間人が近づけるところではなかった。ところが、徳島生まれのタクシー会社社長、井上長一(35歳)は、海軍から国産(横須賀工廠)試作機を払い下げてもらうと、「日本航空」(戦後のものとは別)を立ち上げ、1922年11月、この堺の大浜から徳島や高松、白浜などへの定期便を飛ばし始めた。じつは、これらは、浮舟付きの水上機。飛行場の建設など、必要なかったのだ。


 1923年9月の関東大震災で東京が瓦解してしまったこともあり、多くの人材が関西に移り住み、大浜公園と日本航空は、大いに繁栄した。しかし、32年の五一五事件の後、しだいに軍国の気配が色濃くなり、34年9月の室戸台風の高波で大浜公園は壊滅的な被害を被る。それでも、井上の日本航空は、民間会社として飛び続けた。ソファの座席に「エアガール」が接客し、「空飛ぶホテル(ビヤホール)」とのサービス(キリンビールと提携)を誇り、需要が延び続ける瀬戸内航路のために、50人乗りの巨大飛行艇(払い下げ90式の改造)さえも計画していた。しかし、軍事国策統合会社「大日本航空」の発足によって、1939年10月末日をもって、突然に廃業を余儀なくされてしまう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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