住宅メーカー・住友林業には社内公募制度がある。これを使えば年に一度、望む部署に異動できる。ビジネスパーソンのキャリア意識が高まるにつれ、こうした制度を採用する企業が増えてきた。いち早く公募制度を取り入れた住友林業では、毎年新たな職場にチャレンジする社員が現れる。人事部採用担当の幸田も、そんなチャレンジャーの一人だ。
この一件以降、幸田は、お客様の言葉の一つひとつに集中して、その思いを一つ残さず聞き出すようになった。
◆突然の転機、水戸への異動
営業スタイルは一変する。何よりも意識したのは、お客様が求める住まいの理想像を、自分の頭の中にしっかりと描くこと。イメージが固まってから、はじめて専任チームに話を引き継ぐ。やり方を変えてから、成績はぐんぐん伸びていった。やがて入社5年目にして激戦区東京エリアでの営業成績ナンバーワンに上り詰める。
トップセラーとなった幸田には、新たな試練の場が待ち受けていた。水戸支店への異動である。幸田にとって水戸は、生まれてこの方、縁もゆかりもない土地だ。俗に言う茨城弁、独特の方言は正確に聴き取ることも難しい。しかも支店では「東京からエースが送り込まれてきた」と期待と好奇の入り交じった目で見られる。
焦るなという方が無理な状況である。必死でもがいたものの、結果を出すことはできなかった。期待が大きければ、外れたときの反動も強くなる。いつしか支店内では「地方では売れない幸田」などと陰口を叩かれる存在になり果てていた。
それでも幸田は腐らなかった。たとえ結果は出なくとも、営業スタイルを変えたりはしなかった。商談ではいつもお客様のご要望を完全に引き出し、理解することに集中する。住宅営業の本質は、どこに行っても変わるはずがない。信念に支えられた努力はやがて実を結ぶ。
赴任後半年が経つ頃にはエリア内の土地勘ができてきた。方言も耳に馴染むようになり、少しずつ茨城弁を交えて話せるようになってきた。たとえぎこちなくとも、地元の言葉で話そうとする幸田を、お客様は心を開いて受け入れてくれる。幸田の営業成績は、再び上昇気流に乗った。
実力を認められた幸田は、若干30歳にして展示場責任者を任される。異例の大抜擢である。責任者ともなれば、当然部下が付く。自らの営業成績はもちろん、チーム全体の成績にも責任を負わなければならない。ノウハウ、実績そして人を引きつけて引っぱっていくだけの度量が求められるのだ。
これが幸田には、さらなる飛躍の糧となった。人にものを教えるには、まず自分が完全に理解しなければならない。教えは、学びの最高の機会となるのだ。それほど歳の変わらない若手と共に苦しみ、喜びを分かち合いながら、彼らを教え導く毎日は、幸田自身を一回り大きくした。その結果、責任者に抜擢されたその年、過去最高の営業成績をたたき出す。
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