経営者にとって「良い社員」ばかりの企業は、危ういように思われる。
永井洋一『少年スポーツ ダメな指導者 バカな親』(合同出版)を読む。
13ページに、次のような記述がある。
《多くの大人は、自分の意のままに動く子どもを「良い子」と考えるようです。ですからスポーツの指導においても、多くの監督・コーチたちが、自分のイメージしたプレーやチームづくりに少年たちを当てはめようと躍起になります。そして、そのイメージに当てはまらないと、いらだち、怒って、暴力を振るったり言葉の暴力を浴びせたりします。そうしたトレーニングを続けた結果、スポーツの現場では、大人の機嫌をそこねない行動をする、大人の喜ぶような態度をとる「良い子」が育っていきます。》
これを読んで、まず想起したのが、今話題になっているボクシングの亀田一家である。
あの一家の中では、父親にとって息子は非常に「良い子」であり、息子もまた「良い子」を演じ、自らを「良い子」と信じて疑わなかったのであろう。
しかしそれは、あくまでも亀田一家という閉じた世界での尺度における「良い子」である。その尺度と、世間一般のそれとの乖離が、さほどない(あるいは、顕在化していない)うちはよかったものの、今回の一件では、さすがに世間一般の尺度との大きな乖離が露呈し、結果、世間は亀田家(の尺度)を叩くほうに傾いたようだ。
ここで、企業経営について考えてみる。
亀田家と、不祥事を起こした企業が、モロにかぶって見える。
企業不祥事において、実際に不祥事に手を染めた社員の多くが、その企業という閉じた世界においては、《経営者の喜ぶような態度をとる「良い社員」》だったのではないか。
経営者にとっては、《意のままに動く》「良い社員」ばかりであったほうが、確かにラクだろう。また、そのことが企業としてのパワーを生み出すこともあるだろう。
しかし、経営者の価値の尺度が、世間一般のそれと乖離してしまっていた場合、そして社員全員が「良い社員」だった場合、その企業は危険なだけの集団となる。
経営者も神ではない以上、常に正しい尺度を持ちうるとは限らない。
そう考えると、一定数の「良くない社員」も、企業内には必要ではないか、とも思う。
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