コンピュータソフトといえば、自社専用に開発するもの。そんな認識が主流だった日本に、本格的なパッケージソフトを持ち込み、普及を促したのがビル・トッテン社長率いるアシスト社だ。同社成長の歩みは、日本のパッケージソフト市場成長の歩みでもある。
第1回 「上司との交渉決裂、そして日本へ」
■日本には市場がまだない、だからこそ日本でやりたい
「どうしても認めてくれないのなら、自分でやりますと言いました。これがすべての始まりですね」
1971年冬のある日、トッテン氏は米システム・デベロップメント社(SDC)の重役室にいた。過去一年半あまりをかけて日本でのパッケージソフトウェア市場に関する調査を行い、自分なりの分析に基づいた提案書を上司に出したのだ。
「40年前の日本にはまだ、パッケージソフトを採用している企業は、ほとんどありませんでした。だからこそ絶好のチャンスだと思ったのです」
トッテン氏の言葉は、マーケティングに関するある有名な逸話を思い出させる。アフリカにセールスマンが二人、靴を売りに行った。アフリカに着くやいなや一人は落胆する。理由は、アフリカの人たちが誰一人として靴を履いていなかったからだ。アフリカには靴のマーケットなどない、と判断し彼は帰っていった。逆にもう一人は大喜びする。これからみんなが靴を履いてくれれば、アフリカには膨大なマーケットが生まれると考えたからだ。
「日本でも、コンピュータがどんどん使われるようになっていました。ところが企業で使うソフトは、ほとんどが自社開発の時代でした。だからといって我々のようなアメリカ企業が、日本企業向けのソフト開発を受注できるかといえば、それも至難の業。何しろ1ドル=360円の時代でしたから」
人月計算で見積もられる開発費は、どうしても人件費の比率が大きくなる。物価水準の差もあり当時のアメリカは、日本よりずいぶん人件費も高くついた。アメリカでソフトを受託開発していてはコストがあわないのは目に見えている。
「しかも我々は日本語ができません。日本の商習慣もよく知らない。日本文化も理解できていない。『お前達にソフト開発を頼むわけがない』と調査に行った日本企業で言われました」
だからといって米系ソフト会社には日本マーケットに参入する余地がないのかといえば、決してそんなことはない。使っているコンピュータは日本企業もアメリカ企業も同じ、たいていがIBM製だった。
「確かに日米で企業文化は違うかもしれませんが、業務内容やプロセスはどうでしょうか。仕事の進め方自体に、それほど大きな差はないはずです。同じIBM製のマシンを使っているなら、アメリカで使われているパッケージソフトがきっと使える。僕はそう考えたのです」
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FMO第34弾【株式会社アシスト】
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