マリオシリーズや『Wii Fit』などで世界的な支持を獲得している任天堂の宮本茂氏。ゲームデザイナーとしての30年間の業績が評価され、第13回文化庁メディア芸術祭では功労賞が贈られた。受賞者シンポジウムでは、エンターテインメント部門主査の河津秋敏氏が聞き役となり、宮本氏が自身のゲーム設計哲学を語った。 [堀内彰宏,Business Media 誠]
クリエイター30代限界説に挑戦
宮本 スーパーファミコンの『スーパーマリオワールド』(1990 年)のころになると、1人で全部作るのは無理になっていて、「何本か同時に作らないとダメ」ということになってきたので、自分で“プロデューサー”と名乗るようになりました。会社の役職には部長、課長、係長しかなくて、ディレクターもプロデューサーもないので、名刺にそれを書いたら、「人事部的にこれは困ります」と怒られたりした時代があったのですが(笑)、プロデューサーとして大勢のディレクターに仕事をしてもらって全体の品質をまとめるようになりました。
糸井重里さんと『MOTHER』(1989年)を作ったり、『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島』(1987 年)というアドベンチャーゲームを作ったりしているうちに40歳になりました。クリエイター30代限界説みたいなものがあったりして、40歳でプロデューサーをやっていると、「そろそろ現場はやばいかな」「自分で全部ものを考えてまとめるという根気がなくなってるんやないか」と思うようになります。
(ディレクターをやっていなかった期間は)30年の中ではそれほど長くないのですが、僕の中ではものすごく長い時間でした。そこで、NINTENDO64(参照リンク)というハード用のゲームを作る時、「1回ディレクターに戻ろう」と思って、頑張ってディレクターをやりました。大変でした。昼間は会社のほかの作品のプロデュースの仕事をして、夜にはディレクターとして仕様書を書いて、朝にプログラマーの席の上に置いて帰るというのを続けました。
ただ、できたんですね。これができたことで、すごく自分の中で自信になりました。41歳の時ですが「まだまだ現役でやれるやないか」と感じた思い出の仕事です。そこで作った『スーパーマリオ64』(1996年)が世界中のゲームデザイナーにインパクトを与えて、3Dアクションの基本になったと言われます。
『スターフォックス64』(1997年)は僕は任天堂の中にいながらナムコ(現バンダイナムコゲームス)ファンで、「ナムコに行きたかったなあ。ナムコのデザインかっこいいよな。資料を使わしてくれるしなあ」と思いながら作った作品です。
『ギャラクシアン』(ナムコ、1979年)のようなシューティングゲームは、本当は誰でも遊べるんですね。ところが、シューティングゲームがどんどん難しいものになっていったので、「誰でも遊べる3Dシューティングゲームを作ろう」ということで『スターフォックス64』を作りました。また、石原恒和(現株式会社ポケモン社長)さんと一緒に作った『ポケットモンスター』を3Dで動かそうということで、『ポケモンスタジアム』(1998年)を作りました。
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宮本茂氏の設計哲学
2010.03.08
2010.03.01