マリオシリーズや『Wii Fit』などで世界的な支持を獲得している任天堂の宮本茂氏。ゲームデザイナーとしての30年間の業績が評価され、第13回文化庁メディア芸術祭では功労賞が贈られた。受賞者シンポジウムでは、エンターテインメント部門主査の河津秋敏氏が聞き役となり、宮本氏が自身のゲーム設計哲学を語った。 [堀内彰宏,Business Media 誠]
それが徐々にプログラムで動くようになっていくのですが、ちょうど『ドンキーコング』(1981年)のころにゲームの基盤ができて、プログラムを変えれば動くという時代になりました。「プログラムを作ればいいんだ。技術者じゃなくてもできるんじゃないか」ということで、「じゃあ、絵を描く人が作っても悪くないんじゃないかな」ということで自分で絵を描いて始めました。
なぜそんなチャンスがめぐってきたかというと、技術者が作っていたゲームが大量に売れ残ったんです。ちょうど任天堂が米国進出した時、米国で 3000枚の基盤が売れ残っていて、「それを使って売らないとダメ」というのが僕の仕事でした。だから、世の中で言う「手を挙げる人がいない」という仕事ですね。
でも、幸運だったのは、作った瞬間に海外で売れるということ、そして売れ残っているわけなので自由に伸び伸びとやらせてもらったということです。
そして、自慢になるのですが(笑)、『ドンキーコング』は6万台売りました。業務用の機械なので、1台50万円とかです。今の売り上げには及ばないですが、6万台売ってほめられたかというと、ゲーム業界のバカなところで、7万台近く作ってしまったんですね(笑)。また売れ残ったというので、ほめられるよりも「次のを作ってくれ」と言われました。
このころ僕は、若気の至りで「もう出し尽くしたからネタなんかない」とか言っていたんです。そしたら一緒にやっている友達に「そんなことないやん。『ドンキーコング』作る時にもっとスケッチあったやろ。使ってないやつを作ればいいんじゃないか」と言われて、「それもそうやな」と思って『ドンキーコングJR.』(1982年)を作りました。
『スーパーマリオブラザーズ』でファミコンが大ブレイク
宮本 それから何作か作って、それを「家庭でも遊びたい」ということでできたのがファミリーコンピュータ(ファミコン)です。ファミコンを売り出して、業務用で売っていた任天堂のゲームをファミコンに移植していく。それから、野球などのファミコン用の新しいゲームも作っていました。
その後、ファミコンにディスクシステム(参照リンク)というものを付けることになります。(ファミコン用の)カートリッジのメモリが小さくて値段も高いので、ディスクの方がいいということです
そうすると、「来年からディスクで作って、カートリッジでは作らないのか」と思って、「じゃあ、カートリッジの最後の記念に何か作ろう」と思って、作り始めたのが『スーパーマリオブラザーズ』(1985年)なんです。このころはまだ自分で絵を描いていて、クッパ(ボスキャラ)は新入社員に描いてもらったのですが、マリオは自分で描いていました。まあ、それで僕らはファミコンは卒業するつもりだったんです。
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宮本茂氏の設計哲学
2010.03.08
2010.03.01