今年の夏はお盆にしっかりバカンスを楽しんだ。 その分、8月末納品の仕事に追われ、最終週はさながら夏休みの宿題に追われる小学生のようだと思っていたら、世間の様子が変わっていた。
筆者の地元は東京23区中、小学生の学力が下位にあるとかで、子供たちは夏休みも最終週を返上。9月の声を聞く前に登校する列があった。
確かに秋の訪れが早い北国や、農繁期に秋休みがあるという風習が残る地方があるのは昔からのことだが、それ以外はほぼ全国的に新学期は9月からだったはずだ。
まだ暑さは残るものの、「9月」という響きはイコール、「新学期」であり、過ぎ去った夏休みを思いどこかもの悲しくも、身の引き締まる思いをした覚えがある。
8月の新学期はやはりどこか違和感がある。
そんなことを思っていたら、やはり同様の感想を持った方がいたようだ。
9月4日の日経夕刊・一面コラム「あすへの話題」。「夏休みの短縮」というタイトルで、作家の柴田翔さんが書かれていた。
<夏休みも教育再生会議の提言で、削減の方向にあるらしい。><しかし、単純に授業時間を増やせば、それだけで学力が強化されるものなのだろうか>と疑問を呈しておられる。
子供の学力低下が問題となり、「ゆとり教育」の見直し論が強まっている。
それに呼応して授業時間を増やすということは、一つの選択肢として考えられることではある。
しかし、柴田さんが<しかし、単純に授業時間を増やせば、それだけで学力が強化されるものなのだろうか>と記されているように、授業時間を増加させ、その時間をどのように使おうというのか。
授業時間増加が一つの改革であるというのであれば、この改革にはどうも目鼻がはっきりしていな気がする。
「栄養が足りない。どんどん食べ物を食え。」では大雑把というものだ。食の細い子供は食べられる量は限られている。
何の栄養が足りず、その結果どんな影響が出ているのか。必要な栄養素は何か。それはどのような食品をどのような調理によって食べさせれば効果的なのか。
増やした授業時間をどう使うかも、そのような精緻な設計がなされているのだろうか。
小学校高学年に英語科目を導入しようという論が、一方でいまだに存続していることも気になる。
「読解力の低下」という明らかに不足している栄養素が分かっているのに、「英語」という新たな栄養素を摂取させようという動き。
何やらちぐはぐな感が否めない。
筆者は以前から「英語ではなく、国語だろう!」と唱え続けている者でもある。
マーケティングの要諦の一つとして、「コンセプトの明確化」というものがある。
「誰が」「どこで」「どんな時に」「どうすれば」「どんな便益が得られるのか」。言ってみれば簡単なことだが、目鼻がしっかりしていない商品は、実はこれらのポイントが明確ではない。
「小学生が」「学校で」「夏休みを1週間返上して」「授業時間を増やせば」「学力が向上する」。
続きは会員限定です。無料の読者会員に登録すると続きをお読みいただけます。
- 会員登録 (無料)
- ログインはこちら
関連記事
2007.09.13
2007.09.16
有限会社金森マーケティング事務所 取締役
コンサルタントと講師業の二足のわらじを履く立場を活かし、「現場で起きていること」を見抜き、それをわかりやすい「フレームワーク」で読み解いていきます。このサイトでは、顧客者視点のマーケティングを軸足に、世の中の様々な事象を切り取りるコラムを執筆していきます。