『間違いだらけの教育論』(光文社新書/諏訪哲二)。 世の中で語ることが憚れるような雰囲気が醸しだされ、なかなか語られていないことが、そこには堂々と記されており、深く頭を垂れながら読ませていただきました。 権威・権力「だけ」を振りかざすタイプの教師も実際にはいるでしょう。しかし、だからといって、教師には権威・権力が全く不要だ、と言うのは筋違いです。 慮ろう、「啓蒙」としての教育を―
しかし、自らが必要だと感じたものを体得することだけが教育ではないことは明らかです。
いやむしろ、必要だと感じていないものについて、長い年月をかけて「必要なんだ」と気づく過程こそが、教育において欠くべからざるものでもあります。
そして、この「啓蒙」としての教育は、家庭教育、社会教育、学校教育でしかできません。
塾や教育産業のように、教育をサービスとみなし、学び手に選択権を与えてしまうと、「必要であると感じているもの」しか選ばないのが人間ですから。
加えて昨今、家庭教育、および社会教育(地域での教育)が機能していないと言う声は良く聞こえてきます。
となれば、「啓蒙」としての教育を発揮する場としての「学校」の役割、そして期待されること、結果としての教師の負担は大きくなります。
こんなご時勢だからこそ、教師の皆さんには最大限の敬意を表し、「啓蒙」のための教育の割合を十分に割いて欲しいものです。
そして、そんな教師が、じっくり「啓蒙」のための教育に時間を取れるよう…
親御さん~よく「モンスターペアレント」と呼ばれる方々~の「自子主義」のような、自分の周りのことだけを考えた要望を、公教育の現場に持ち込むことは徹底的に排除してあげたいものです。
もちろん、だからといってすべて「自分に必要ないと思っていても、絶対に必要になるんだから話を聞け」という教え手の論理が100%通用するわけでもありません。
しかし、100%通用しないからといって、簡単に「この勉強、なんの必要があるんだよ!」的に学び手が発する言葉に現れる姿勢は、間違っています。
その学問を学ぶ必要性がわかっていれば、その時点で学びは終わっている―
内田樹氏が、確か『下流志向』の中で触れた言葉です(一言一句正しいわけではないですけど)。
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教育のみならず、自らが成長するための気づきを与えてくれる1冊です。
もちろん、冒頭で挙げた5人の教育者の教育論の漏れについても見事に指摘しています。
教育関係者は必読、そして多くの人に手に取ってもらいたい書籍です。
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