「とりかえしつかないことの第一歩 名付ければその名になるおまえ」と詠んだのは俵万智さんである。 社会全体に、とりかえしのつかない第一歩を踏み出したようなネーミングが氾濫していると感じているのは、どうも私だけではないようだ。
しかし、意味や託したい想いより「呼び名=音」を優先させて、難しい漢字を組み合わせるのは、いかがなものだろうか?奏風→カナタ、琥神→ライガ、乃海→ノア、翔空哉→カグヤ、琉希亜→ルキア、晴心→セイン・・・残念ながら読めない。かわいければいいじゃん。目立った方がお得でしょ。という問題ではない気がする。
大きなお世話だと言われれば、それまでなのだが・・・。
週刊文春の記事には、この状況を危惧する日本司法支援センターの加藤卓也弁護士のコメントが記載されている。『名前は、その人物が社会で認識されるための符牒です。他人が読めない名前には、社会性がありません』と。
数年前に、子供に「悪魔ちゃん」と付けた親が役所と司法で争うニュースが話題になったが、その裁判所の見解は、「命名は子のためになされるべきであるから、親権者がほしいままに個人的な好みを入れて恣意的な命名をなすのは不当であり、子が将来成長して社会活動をするに当たり、自らその名を用いて満足を感ずるような名を選んで命名すべきであり、命名権の濫用と見られるような行為は許されない。」と「悪魔ちゃん」命名は、却下された。
民宗研のサイトの「珍名にみる社会学」には、こんな記述がある。
凝った名前を付ける親は児童虐待しやすい――。盛岡市で二十日開かれた児童虐待問題特別研修会で、大阪大学の西沢哲・助教授(大学院人間科学研究科)が保健師ら約百三十人を前に講演し、ユニークな持論を披露した。
西沢助教授は、セラピストとしての豊富な実務経験を基に講演した。その中で、西沢助教授は「凝った名前には、子供を支配したいという気持ちが出ている」と指摘し、子育てがうまくいかないと、怒りが子供に向けられがちな背景を説明。さらに「凝った名前に横やりを入れる人が周囲におらず、虐待のストッパー(歯止め役)がいないことの現れ」などと実例を交えながら説明した。また、西沢助教授は「最近は、まるで暴走族のチーム名のような当て字の名も多いが、名付けという行為一つにも家庭の様子が見て取れる」と話した。
少し暴論の気もするが。一理は、ある。
子供の未来に託すことは、社会性よりも、個性。
「自分らしく生きて欲しい」という想いが、「読めない名前」の源泉。
「自分らしく生きて欲しい」の裏側には、「自分らしく生きることができなかった自分」「自分らしく生きることを許さなかった親への反発」がある。
だから、子育てがうまく行かなかった時、歯止めがない。
ストレスが、その名を付けた我が子に向かう。
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私的マーケティング論
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有限会社ペーパーカンパニー 株式会社キナックスホールディングス 代表取締役
昭和30年代後半、近江商人発祥の地で産まれる。立命館大学経済学部を卒業後、大手プロダクションへ入社。1994年に、企画会社ペーパーカンパニーを設立する。その後、年間150本近い企画書を夜な夜な書く生活を続けるうちに覚醒。たくさんの広告代理店やたくさんの企業の皆様と酔狂な関係を築き、皆様のお陰を持ちまして、現在に至る。そんな「全身企画屋」である。