文化放送The News Masters TOKYO『マスターズインタビュー』。 今回は、キッコーマンの代表取締役社長の堀切功章さん。 堀切さんは1951年、キッコーマン創業八家のひとつ、堀切家の次男として生まれる。慶應義塾大学を卒業後、現在のキッコーマンに入社。2013年、社長に就任した。 創業八家からの出身ではあるものの、その地位の保証はなく、社内の対立にもさらされたことも...。創立100周年を迎えて、日本の食文化を担うキッコーマンはどのような局面に立とうとしているのか? 文化放送『The News Masters TOKYO』のパーソナリティ・タケ小山が迫った。
伝統は革新の積み重ね
現在のキッコーマンは、1917年に野田の茂木六家と高梨家、流山の堀切家の八家が合同して生まれた。
100年企業でこれほどの規模の展開をする会社は、日本にいくつあるだろうか。
タケ:
八家が一緒になるには難しさもあったのでは?
堀切社長:
想像でしか言えませんが、大変なことだったと思います。
それまで何百年も使っていたそれぞれの看板を架け替えることになる八家が、合わせて200以上のブランドを1つにするのは並大抵のことではない。しかし、それ以上に近代化の意思が強かったと堀切社長は分析する。
その八家の一つ、堀切家出身の社長は、どのような志で入社を決意したのだろうか?
タケ:
社長は、最初からキッコーマンに入社するつもりだったのですか?
堀切社長:
私は創業家のひとつの堀切家の出身ですが、創業家は1世代に1人しか入社させないという不文律があります。私は次男坊でしたが、兄が急逝し、私が家を継がないといけないという立場になりました。のんびり育っていたから、いきなり風当たりが強くなり"ヤバイ"という感じはありましたね(笑)。
かといって、そのままエスカレーターで現在の地位についたわけではなく、創業家の出身だからと言って特別扱いはされず、役員の保証もなかった。
先代と先々代の社長も創業家出身ではない。あくまで実力主義というのも長く続いてきた理由なのだろう。そして長く続いてきた伝統については、このようにも語っている。
堀切社長:
"伝統"は"守る"というイメージがありますが、"伝統は守るものでなくて、革新の積み重ねの結果"です。次の100年に向けて更なる革新を積み重ねていきたいですね。
海外進出と高付加価値商品を作る
キッコーマンは、海外でしょうゆを売るときに、「日本食」や「和食の調味料」としては売っていない。「あらゆる料理に使える調味料」として紹介している。
特に北米でマーケティングを本格化した1957年から、「日常の中にどう、しょうゆを浸透させていくか」を課題として取り組んできた。
その成果もあり、「デリシャスオンミート」とアメリカの人たちに受け入れられて急速に浸透。さらに一歩進んで、海外の各地の食文化と交流をして、新しい文化が生まれる、この繰り返しをやってきたという自負がある。
一方の国内の食卓にも、新しい文化が生まれている。
今でこそ、定番化した「しぼりたて生しょうゆ」。これは、どのように生まれ、どのように浸透したのだろうか?
堀切社長:
20年くらい前からこの発想はありました。しょうゆは開栓して空気に触れると本来の味が失われていくのです。
昔は家庭でおいしさが維持されている間に使い切っていたしょうゆだが、日本人の食スタイルが変化し、年々外食や中食が増えたりしたことで、家庭での消費量は減っていった。
そこで、使い切るまでフレッシュさを維持できるよう、空気に触れない容器を開発。生しょうゆを提供できるようになった。
お客からの評価としては、「使い勝手がいい。倒してもこぼれないし、1滴単位で使える」と高い評価を得ている。
また、思わぬ副産物もあった。
「お寿司の軍艦が食べやすくなった」、加えてある回転すしチェーンでは「しょうゆの小皿を無くした」といった声も聞こえてきた。1滴単位で使う分、消費量が減ると言われるが、その代わり、商品としての付加価値を高めることに成功した。
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