文化放送・The News Masters TOKYO『マスターズインタビュー』。 今回のインタビューのお相手は、パーソナリティ・タケ小山の大学院時代の恩師でもある早稲田大学大学院スポーツ科学研究科教授、平田竹男さん。 平田さんは、1982年に通商産業省に入省。 Jリーグの設立や、サッカーワールドカップの日本開催招致に携わった。 そんな平田さんの原点は"サッカー少年" 。
サッカーしか向かなかった。
小学生の頃、教室でちょろちょろしていると怒られた。野球でも、ちょろちょろしていると怒られた。
サッカーだけは、ちょろちょろしていると褒められた。
「サッカーというものがなかったら、学校はしんどかったと思う」と平田さんは言う。
そして、中学生になると、辞書を片手に英語で書かれたヨーロッパのサッカー雑誌を読むようになり、そこで見た世界に「ヨーロッパはすごいんだ!」と衝撃を受ける。
そして、中学生の平田少年は3つの夢を抱く。
それは、「プロリーグの創設」「サッカーくじの導入」「ワールドカップの自国開催」。
時を経て、平田さんは、通産省でスポーツビジネスの拡大を検討しているときに、当時、サッカーリーグのプロ化を進めていた川淵三郎氏と出会う。
川淵さんとは、すぐに話が合った。
最初に話したのは、「チーム名に企業名を入れるのをやめよう」ということ。
「応援するにあたって、チーム名が企業名では泣けない。熱中できない。だからニックネームが欲しい」
そんな平田さんの言葉に、川淵氏は「そやな」と賛成してくれたという。
これにより、サッカーは「企業の手から市民の手に」移ることになった。
こうして1993年に「Jリーグ」は開幕。
2001年には「サッカーくじ」の発売が開始され、2002年には「日韓ワールドカップ」が開催された。
中学生の頃に抱いた3つの夢、すべてを平田さんは叶えたのである。
愛称「なでしこ」の誕生秘話
Jリーグの設立やワールドカップの日本開催招致に尽力した平田さんだが、一方で、女子サッカーの振興にも力を注いだ。
日本サッカー協会の専務理事に就任した2002年当時、女子サッカーはシドニーオリンピック出場を逃して人気が低迷。
日本女子サッカー界の発展には、2004年のアテネオリンピックへの出場が「絶対」だと平田さんは考えた。
そこで、平田さんが力を入れたのは、アテネオリンピックアジア予選の自国開催。
当時、予選が開催される予定だった中国で感染症のSARSが流行。中国での予選開催がキャンセルになり、日本での開催を提案したのだ。
そして、放映権などの全権利をもらって日本での開催が実現する。
選手は応援してくれるお客さんがいると全然違った。
アテネ出場権をかけた北朝鮮戦は、国立競技場を使い、ゴールデンタイムに生中継。
視聴率は16.3%を叩き出し、なんと同時間帯に放送されていた、巨人・阪神戦を上回った。
女子サッカーがちゃんとテレビコンテンツになると証明できたことが嬉しかったと平田さんは満足そうに語った。
試合は3対0で日本代表が北朝鮮を破った。
が、次の日の新聞の見出しに、平田さんは腹が立った。
『女もアテネ』『女も五輪』
「なんとかならないのか」とプレスに怒ると、逆に「平田さんならどう書くか」と問われて閉口する。
「日本代表」だと男子だと思われる。「女子代表」ではサッカーだと分からない。
「サッカー女子日本代表」は、活字を使いすぎる。
確かに、いい見出しが見つからなかった。
そんなわけで、ニックネームをつけることに。こうして「なでしこ」が誕生したのである。
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