世の中は腸内環境ブーム。 乳酸菌の効用を強調したヨーグルトが至る所で売られているが、戦後間もない頃から、乳酸菌が人間にもたらす健康作用に着目し、製品を作り続けている企業がある。 主要製品は「乳酸菌」そのものではなく、「乳酸菌生産物質」という乳酸菌が作る成分なのだという。 耳慣れない言葉にタケは興味を惹かれた。 タケ世代にとって、お腹の健康は大問題。そして、50年という歳月を乳酸菌研究にかけた株式会社光英科学研究所の代表取締役社長・村田公英さんの生き方も実に気になるところだ。
スティルヤングを飲んで育ったラジオ好き少年
村田公英さんは山口の生まれ、父は政治家で、同郷の大物政治家とも既知の間柄だったそうだ。
政治活動に精力を注ぐあまり、家には生活費が入らない。戦後の混乱期でもあり、村田家では母が働いて家計を支えた。
「父の人脈を利用して、母は乳酸菌生産物質が主成分の飲料『スティルヤング』という製品の販売員をしていました。
母が勤めていたのは、開発者の正垣一義氏の会社でした。戦後の食糧難の時期ですから、妊婦が飲むと良いというので、よく売れたそうです」
村田少年は、体に良いというので、8歳から乳酸菌生産物質が主成分の「スティルヤング」を飲んで育った。
少年時代はエンジニア志望、機械いじりが大好きだったそうだ。幼いころから一途な性格で、物事を極めたいと思っていた。
ラジオが好きで、仕組みに夢中になり、解体したり組み立てたりするのが趣味で、学生時代は無線にも通じ、ずっとエンジニア志望だった。
電気工学の専門教育も受け、その道に進むと思われたが、母に勧められて乳酸菌研究に路線を変更する。
「母の勤め先に入社し、正垣一義氏に師事して研究生活を始めましたが、厳しかったですね。乳酸菌研究の歴史と、これまでの経緯、乳酸菌に対する心構えを徹底的に教育されました。
正垣氏は乳酸菌生産物質について国会で演説もし、日本人の健康促進と、復興のために乳酸菌研究を役立てようと懸命でした」
こうして村田さんと乳酸菌の半世紀を超える付き合いが始まった。
乳酸菌の先駆的研究は高く評価されたが、事業は破綻
今でこそ誰もが知っている乳酸菌だが、日本で初めてヨーグルトが作られたのは大正時代にさかのぼる。
開発したのは正垣角太郎という医師だった。
100年前、細菌研究で有名なパスツール研究所の乳酸菌研究に触発されて作られた日本初のヨーグルトは、37度という乳酸菌発酵に必要な温度を保つために、湿らせたおがくずを燃やすなど、日本独自の方法を考案したそうだ。
今や乳酸菌といえばヨーグルトだが、父の研究を受け継いだ正垣一義氏は、次第に乳酸菌よりも健康効果が高い物質、乳酸菌が出す物質に着目することになる。
それが「乳酸菌生産物質」で、後にスティルヤングという飲料として販売するに至った。
「製品そのものは良かったのですが、販社や出資会社と、経営方針の行き違いなどがあり、うまくいかなかった。当初、乳酸菌生産物質というのは、アミノ酸が多いので、調味料として使うと味がよくなるんです。
戦後しばらくは外食産業向けに売れていたのですが、やがて化学調味料が出てきました。味が濃く、安価で手軽ということで、市場を奪われ、事業としてはうまくいかなくなりました」
昭和44年、研究所を閉めることになってしまった。
しかし、研究の火は消せない。
村田さんは、正垣所長から会社の全権と、製法ノウハウを譲り受けた。
「そこから25年、得意な電気関係で仕事をさがし、ラジオや無線機、通信機器の会社で働きました。
一方で、土日には乳酸菌研究や会社再興のために、コンサルタントと相談しながら協力会社や出資者をあたり、交渉を続ける二重生活を送りながら、会社を立て直す機会を待ちました」
生活のためと、信念のため、過酷なダブルワークを続けた村田さんの尽力で研究は永らえ、関係者の一途な事業再興の希望はつながれた。
そして53歳になって、会社設立につながる運命の出会いがあり、現在の光英科学研究所として事業を再興することに成功した。
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