古墳は土石流対策の灌漑施設?

2016.11.21

開発秘話

古墳は土石流対策の灌漑施設?

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/古墳は墓だ。だが、やたら天文にこだわっていた古代人にもかかわらず、その方位はばらばら。しかし、現地の様子をよく見ていくと、墓である以上に、防災水利施設としての必要性があったのではないか?/


 この後、茶臼山(桜井市)と西殿塚(天理市)に北向きで、それも丘の中腹に作られるが、メスリ山(桜井市)は東向きに、鳥見山南の土石流谷の正面に構え、西の天香久山地域を守っている。このころになると、円筒埴輪列が三段に施されているのが特徴的。さらに、箸墓の東北、4世紀に作られた行燈山(第10代崇神天皇陵?)と渋谷向山(第12代景行天皇陵?)は、双子の古墳で、左右から山の谷を向き、それぞれ柳本と纏向(まきむく)の町を防御。


灌漑用溜池としての古墳

 4世紀末になると、五社神(第14代神巧皇后墓?)、石塚山(第13代成務天皇陵?)、陵山(みささぎやま)など、後の平城京の北にぼこぼこでかい古墳が作られる。佐紀盾列古墳群と言う。いずれも北向きだが、この先に土石流を起こすような山は無い。せいぜい標高100メートル強の丘があるだけ。


 だが、問題はこの丘。この丘の北に、奈良盆地の東の木津川山地をぐるっと迂回してきた木津川が流れており、そっち側の標高が36メートルほどしかない。一方、南の奈良盆地側は70メートル。奈良湖が干上がってしまって以来、東の佐保川、西の秋篠川より南は、これらの川から水を引けたが、その間のところ、つまり、その後の平城京の一帯は、農業用水が確保できなくなっていたのだ。


 そもそも、古墳以前に、このあたりは溜池がいっぱい。『日本書紀』によれば、水上(みずがみ)池(狭城(さき)池)は、第10代崇神天皇が作ったとされているから、溜池の方が古墳より古い。つまり、これらは埋葬地としての古墳を古墳として作ったのではなく、溜池を掘った残土を中の島として積み上げ、その上に天皇や王族を葬った、というのが実情だろう。


 水上池もそうだが、奈良や大阪の古い地図を見ると、溜池にはたいてい中の島があったことがわかる。それは掘った残土を処分するためだけではあるまい。保水のために、多くの水を含みうる土山は有効だったのだろう。とくに池を掘る場合、自然堆積のシルトや粘土の層を破ってしまうと、それはただ空堀になるだけで、水は地中に染み込んで抜け出てしまう。だが、本来のシルトや粘土を含んだ残土を中の島にすれば、そこから細かな粒子だけが時間をかけて堀の側に流れ出し、やがて池の底を耐水コーティングすることになる。古墳表面の葺石や、くまなく何段にも並べられた円筒埴輪列も、そのための土壌濾過装置として機能していたのだろう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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