『日経ビジネス』2007.11.26号の「ひと劇場」にて、サイボウズ:青野社長が取り上げられており、記事中で、彼が多用する言葉 「それはお客のためになるのか」 が紹介されていました。 誠実で実直な、青野社長らしい言葉といえます。
教育においても大事な気持ちは、もちろん、
「それは、子どものためなのか」
という気持ちです。
そして、Z会のサービスにおいて、子どもたちの期待に応えるようなものを提供することは、口に出すまでもなく「当然」(暗黙の前提)の姿勢として、社員全員が働いていくべきでしょうし、まだまだ現場の僕自身も、無意識にそんな姿勢でサービスを生み出していきたいと思っています。
「教育サービス」となると、「(短期間でも、子どもの欲求を満たさなければいけない、という意味での)サービス」の温度が入る分、少し考えにくくなりますので、ここでは純粋な「教育」において、「子どものため」という言葉をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
あくまで僕の考えですが…
「子どものため」とは、「子どもが幸せになるために」ということです。
「子どもが幸せになる」には、「社会に幸せが満ち溢れている」ことが必要です。
「社会に幸せが満ち溢れている」には、社会全体の生産性が高く、多くの場合、成長性を伴っていなければいけません。
幸せな社会は、他人任せでくるのであれば、それはそれで嬉しいものですが、すべての人が社会の構成員となっている以上、それはありえない話です。
よって、社会全体の生産性を高くできるような大人に、子どもを成長させることが、「子どものため」です。
そんな社会であれば、自分も過ごしていて幸せなわけですから、「子どものため」と思う気持ちは、僕の中ではほぼ100%「自分のため」という気持ちに直結しています。
※なので、「子どものためにやっているのに!」という恩着せがましさや、「子どものためにやっているのに…」という愚痴っぽい気持ちは、余り持つことがありません。「自分のため」に「教育」に携わっている、そう思っているほうがいろんな意味で良いと思っていますから。
安易にモノを与えたり、過剰に子どもを管理したりすることは、子どもの成長を伴わないので、もちろん「子どものため」とはいいません。
整理すると、
「子どもの、社会への貢献度合いを高めるように子どもと接する行為を“子どものため”という」
となりますかね。
こちらの記事で「相対評価」について触れましたが、対立概念として「絶対評価」があります。
初等教育において「絶対評価」が導入されたときには随分話題となり、賛否両論ありましたが…こちらについても「相対評価」「絶対評価」という二項対立のような構造で考えるのではなく、「子どものため」という軸で考えれば良いと思うんです。
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