「自由は楽しいものではない。それは選択の責任である。楽しいどころか重荷である」とドラッカーは言った。しかし、その自由という重荷をチャンスに変えることが個人にとっても、組織にとっても、社会にとっても重要なことである。
私が研修を通して接している層は、大企業の従業員や公務員であり、はっきり言えば、いろいろな意味で“守られた層”の人たちです。
守られているがゆえに、その分、安心して十全に自己を開き、仕事を開いて、日本をぐいぐいと牽引していってほしいと願いたいところです。フロムの表現を借りれば、「人間の独自性と個性にもとづいて積極的に」自由を活かしてほしい。しかし、現実は、「自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求める」傾向が強まっています。
◆個々が内面を掘り起こすことでしか世の中は善く変わらない
私はここで、日本のサラリーマンが「仕事を怠けている」と言っているのでありません。「自由を活かすことを怠けている」のではないかと言っているのです。私たちはそれこそ残業の日々です。うつ病が社会問題化するほど、ストレスもさまざまに抱えています。その面ではよく働いています。
しかし、私たちが気づかねばならないのは、その働き過ぎは、フロムの指摘する“自由の重荷から逃れた新しい依存と従属”によって引き起こされているものではないかということです。
私たちは、自分の仕事の在り方を決める自由を手にしています。そして、組織の在り方、事業の在り方、資本主義の在り方も自分たちで決められる自由を持っています。しかし、その正しい解を見つけ出し、実現するには相当の努力が要るので、それは遠まわしにしたり、誰かがやってくれるだろうことを期待して、とりあえず目先の自己の利益確保だけを考えて、現状体制に依存と従属をするわけです。
多少の愚痴や問題はあるけれど、その依存と従属の仕事で、毎月、お給料が振り込まれ、なんとなく生活が回っていくのであれば、ことさらに自由を使いこなす必要もない。まさに丸山の言う「アームチェア」的な居心地に身を置くことができれば、そこから立ち上がりたくなくなる状態が生まれる───私には、「あこがれモデル」を探せなくなった社員たちの姿をそこに見るような気がします。
かといって、私はこうしたことを批評するだけで終わりたくはありません(私だって、自慢できる20代を過ごしたわけではない)。しかし、私の目の前には、そうした問題の解決に身を投げる大海原が広がっています。ですから私は、守られた環境のサラリーマン生活にピリオドを打ち、独立して教育事業への道を歩み始めました。自分の自由をもっと活かしてみようと思ったのです。
「世の中を悪い方向に変えるにはマス情報で事足りるが、世の中を善い方向に変えるには1人1人の内面を掘り起こしていかなければならない」 ───これは私が大手出版社に勤めて得た最大の収穫です。
そうしていまは、日本の企業・自治体の第一線で働く1人1人と、学びの場を通して対話や思索を交える仕事をやっています。目下の課題の一つは、「あこがれを抱けなくなりつつある若年層社員に、どうすれば思考の刺激を与えられるのか」。そもそも『あこがれモデルを探せ』は、働く目的を考える補助ワークでしたが、その補助ワークの補助ワークが必要になってきたという状況です。しかしそれもやりがいのある仕事です。
いまの仕事は、日本のサラリーパーソンの「心持ちの先端を感じ取る」仕事ですが、同時に、教育を通して、そうした人たちの「心持ちの先端をつくる仕事」でもあります。
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2010.03.20
2015.12.13
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。