私たちは「ああ、それなら知ってるよ」と思ったとたん、それ以降の「考えること」をしなくなります。そして、もっと知らない知識・もっと目新しい情報を欲しがります。3・11以降の日本人は知識の狩猟を超えて、観念の耕作に喜びを見いだせるか───
ここで、小林秀雄を引用しましょう。下の箇所は小林が小中学生に語った『美を求める心』に出てきます。
―――「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。(中略)言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです」。
小林は、言葉が美を見る眼を奪ってしまうと言います。それと同じように、私は、知識が学ぶ心を奪ってしまうと思います。つまり、「ああ、アランのその言葉なら知ってるよ。『幸福論』に出てくるやつでしょ」と、自分がそれを知識としてすでに持っていると認識するや、その人はもうその言葉に興味をなくします。その言葉の深い含蓄を掘り起こし、自分の生きる観念の一部にしようという心を閉じるのです。
知識狩りに忙しい人は、新奇のものを知ることに興奮を得ていて、ほんとうの学び方を学ばない。ハウツー情報狩りに忙しい人は、要領よく事を処理することに功利心が満たされ、物事とのほんとうの向き合い方を学ばない。
とはいえ、人生とはよくできているもので、こうした情報狩りに忙しい人も、ハウツー情報狩りに忙しい人も、いつかのタイミングで古典的な言葉に目を向けるときが必ず来ます。誰しも、悩みや惑い、苦しみに陥るときがあるからです。人は何か深みに落ちたときに、断片の知識や要領のいい即効ワザだけでは自分を立て直せないと自覚します。そんなとき、自分に力を与えてくれるのが古典的な言葉です。その言葉を身で読んで、強い観念に変えて、その人は苦境から脱しようとします。
そういうことがあるから、私は古典的な言葉を通して、大事な観念を研修で発し続けます。いまはピンとこないかもしれないけれど、その人の耳に触れさせておくということが決定的に大事です。
自分の外側には、無限の知識空間があり、そこを狩猟して回るのは興奮です。他方、自分の内側には、無限の観念空間があり、そこを耕作することは快濶です。狩猟の興奮を与えるコンテンツ・サービスは世の中に溢れていますが、耕作することの快濶さを与えるものは圧倒的に少ない。私はその圧倒的に少ないほうに自分の仕事の場を置きました。
3・11以降の日本がどうなるかを考えるとき、日本人がこの耕作にどれだけの振り返りをみせるかはひとつの重要なポイントになると感じます。人を強くするのは多量の知識ではなく、健やかな観念です。興奮は一時的な刺激反応ですが、快濶は持続的な意志活動です。日本人の1人1人が、「知ること」を超えて、「掘り起こすこと」に喜びを見出していくなら、日本はひとつ強くなれると思います。
続きは会員限定です。無料の読者会員に登録すると続きをお読みいただけます。
- 会員登録 (無料)
- ログインはこちら
関連記事
2010.03.20
2015.12.13
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。