私たちは、あまりにビジネス社会からくる効率・実用・功利主義の影響を受けていて、曖昧さを避け、揺らぎを嫌い、具体・客観・論理を奨励する。しかし、これはあくまで一方向への視点に過ぎない。
芸術作品より難解な哲学書を表したのが、受信例〈3〉である。デカルトが『方法序説』を通じて読者に伝える内容は、具体的明示の部分は少なく、抽象的暗示の部分が大きい。 「我思う、ゆえに我あり」という言葉の結晶は形而上の示唆に富み過ぎていて、 私たち一般人が理解できるのはそのわずかしかない。
哲学書と同様(いやそれ以上に)、抽象的暗示に富んでいるのは、宗教の経典である。キリスト教の『聖書』、仏教で例えば『法華経』、イスラム教の『コーラン』などは、その文章を逐語訳的に理解したところで、その教えのごく一部分しか分からない。その教義を理解するというのは、その大部分がファジーな思考・体験・確信によるのだ。
〈受信例4〉は、対自然の場合を表したもので、少し特殊である。なぜなら、自然は、私たちに実にさまざまなメッセージを発しているが、それらはいっさい形式化されないからだ。すべてがファジーな情報(現象、雰囲気、アナログな変化)として発せられるのみである。
だから、そのメッセージを受け取るには、道具を用いて観察値として検知するか(=ソリッド理解)、個々の五感・第六感を研ぎ澄ませて感知するか(=ファジー理解)になる。人間が自然の美しさを深く理解するのは、もちろん後者によってである。
このように私たちは、ソリッドとファジーの2つを複雑微妙に掛け合わせながら、物事をとらえたり、伝えようとしたり、理解しようとしている。大事なことは、物事が複雑になればなるほど、ファジー、つまり不明瞭な“にじみ”の部分が大きくなってくることである。このことは言い方を変えると、世の中の複雑なことをとらえ、伝え、理解しようとするには、ファジーに考える力をつけないとダメだということだ。
ソリッドに考えるということは、端的に言うと、物事を単純化して目に見える形にしてしまうことである。もちろんこういった思考も必要ではあるが、それに安易に偏向してしまうと、往々にして、真理を含んだ“にじみ”の部分を捨ててしまう、あるいは、曖昧の中に潜む本質を抽出できなくなってしまうことに陥る。実はこれが、いまビジネス現場でも、世の中一般でも起こっている現象なのだ。
-曖昧に考える力〈下〉~“にじみ”を省く思考がもたらすものhttp://www.insightnow.jp/article/6279に続く-
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【ソリッド思考・ファジー思考】
2011.02.03
2011.02.03
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。