ネット証券の草分け的な男として活躍してきた、マネックス証券の松本大社長。米経済誌『フォーチュン』で「次世代を担う世界の若手経営者25人」の1人に選ばれた男は、どのような人生を歩んできたのだろうか。 [土肥義則,Business Media 誠]
――入社3年目。同期入社の社員たちと比べ、松本ははるかにいい数字を残していた。しかしボーナス支給時の上司とのやりとりの中で、“額”についてではないのだが、松本は上司に不信感を持った。そしてソロモン・ブラザーズ・アジア証券を辞めた。
金融の業界から足を洗って、大好きなジャズ喫茶を始めよう、と思っていたんですよ。ときは1990年、日本はバブル景気が続いていた。何をやっていても生きていけそうな雰囲気が残っていましたし(笑)。でも、3年前によく考えて就職した業界なので、もう1社だけ見よう、と思い直しました。
当時のソロモン・ブラザーズ・アジア証券は、アークヒルズの9階にオフィスがありました。そして10階にはゴールドマン・サックスがあって、そこで働く同級生に連絡をしたんですよ。そうすると「ゴールドマン・サックスに来れば」と誘ってくれたので、話を聞くことに。そして話は、とんとん拍子に進み、1週間ほどでゴールドマン・サックスで働くことになりました。
ゴールドマン・サックスでもガムシャラに働いていましたね。債券に関する仕事はほとんどやりました。ロンドン時間に先物の売買をしたときには、1 日の取引額の5割を占めていたこともありましたね。また当時の日本にはなかった不良債権を買い取るビジネスも始めました。それまで債券為替部のディーリングで収益をあげていたのですが、ボクが「別のビジネスを手掛ける」と言い出したので周囲の人は驚いていましたね。安く買った不良債権を商品化して売ったところ、かなりの利益をあげることができました。この不良債権を買い取るビジネスは東京だけではなく、世界中で最も収益を上げるようになりました。
そして1998年5月に、初めてインターネットに触れました。3カ月ほど使ってみて、このように考えるようになりました。「このインターネットを使えば、金融は変わるかもしれない」と。そして会社に「オンライン証券を作りましょう。ゴールドマン・サックスも個人に対して、直接アクセスすべきだ」といったことを提案しました。しかし会社は「自分たちは機関投資家を相手にしていて、個人相手にはやらない」と却下されました。
それまで、会社になかったビジネスを提案したら「お前がやりたいというのならやってみろ」といった感じで、実行できてきました。しかしオンライン証券については却下。いろいろと説得を試みたのですが、会社は動いてくれませんでした。当時のゴールドマン・サックスは数カ月後に株式公開することが決まっていました。ボクはパートナー(利益に対して、配当を受けるという立場)だったので、数カ月待てば上場プレミアム報酬で数十億円を手にすることができたでしょう。それでもボクは「オンライン証券のビジネスをしなければ、後悔する」と思い、9年間勤務した会社を辞めました。34歳のときでした。
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マネックス・ビーンズ・ホールディングス 松本大氏
2010.07.24
2010.07.16