数十億円のカネを捨ててまで、マネックス証券を設立した理由(前)

2010.07.16

経営・マネジメント

数十億円のカネを捨ててまで、マネックス証券を設立した理由(前)

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ネット証券の草分け的な男として活躍してきた、マネックス証券の松本大社長。米経済誌『フォーチュン』で「次世代を担う世界の若手経営者25人」の1人に選ばれた男は、どのような人生を歩んできたのだろうか。 [土肥義則,Business Media 誠]

 外資系企業でも、あえて「金融」を選んだのにはワケがありました。どちらかというと自分は気が短いので、あまり波のない仕事は面白くないのでは……と思っていました。金融というのは、お金が余っている人と余っていない人を、とりもつのが仕事。そこにドラマがあると思っていました。普通に生きていても事件にはなかなか遭いませんが、事件記者をしていれば事件を追いかけますよね。それと同じように、金融の世界に身を置けば、毎日経済的なドラマに触れられるのではないだろうか。そして外資系企業と金融をかけあわせて、「米国の金融機関に行こう」と決めました(笑)。

 1986年に就職活動を始めましたが、当時は外資系の金融機関がほとんどありませんでした。JPモルガンやゴールドマン・サックスなどの説明会に参加しましたが、結局はソロモンブラザーズ・アジア証券への就職が決まりました。

 当時のソロモンブラザーズ・アジア証券は「キング・オブ・ウォールストリート」と呼ばれるほど、力を持っていました。どうせ金融機関に行くのであれば、一番力を持っているところで働きたい、といった思いも強かったですね。

さまざまなことを学んだ、ニューヨークの時代


――1987年4月、松本はソロモンブラザーズ・アジア証券に入社した。最初の3カ月は新卒採用の仕事にかかわり、7月下旬にはニューヨーク研修に行くことになる。

 

研修では「ボンド・マスマティック」という債券数理の勉強をさせられました。実は高校時代は物理学者や医者を目指していたので、計算は得意なんですよ。なので計算はそれなりにできたのですが、英語は全く通じませんでしたね。パーティに参加しても、話をすることができず、辛かったですね。

 英語はダメでしたが、それなりに工夫はしていました。このことはもう時効なのでお話ししますが、アパートのカギを会社に忘れてきて、部屋に入ることができないといったことがありました。ドアマンに扉を開けてもらわないといけないのですが、英語が通じないので部屋に入ることができません。そこでドアマンの机の上に、そっと缶ビールを置くと、何も言わずに入れてくれました(笑)。

 またお金もあまり所有していなかったので、深夜でもニューヨークの地下鉄に乗ったりしていました。今と違って、1980年代のニューヨークは治安が悪かった。地下鉄のこのルートは危ない、地上のこの道は危ない――といったことを分析していました。英語が話せなくてもどうすれば危険から逃れることができるのか、といった工夫を学びましたね。

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