茶の間からサッカー日本代表の決定力不足を指摘することは簡単だ。しかし、このことは日本人全体に投げかけられる「創造的逸脱力の弱さ」問題なのだ。
私は、サッカーにおいて攻撃は、ジャズセッションだと思っている。球のゆくえによって状況が刻々と変わる時空間で、複数のプレイヤーが、瞬間瞬間に予測をし、判断をし、肉体を操り、筋書きのない即興的創造を行っているのだ。球を保持しているプレイヤーは次の仕掛けを閃光のごとく考える。球を保持していないプレイヤーはスペースに走り込む気配を放ってパスを呼び込む。彼らは感覚と肉体を研ぎ澄ませて目に見えない殴り合いを(味方同士で)やっている。“the common result”である「勝利」という栄光に「sympathy」を持ちながら。
私もサッカー少年だったのでよくわかるのだが、守備の固い敵陣のペナルティーエリア近辺から、独り切り込んで局面をつくることはほんとうに難しいことだし、何よりも怖い。
茶の間のファンが、「なんでそこでパスするんだよー」とか「逃げるな、シュートを打て」とか、「だから日本は決定力がないんだよ」とか、そうコメントすることは簡単だ。しかし、そう批評する個人も、例えば自分の職場で難しい状況に遭遇したときに、独り勇気をもって局面を打開する創造力があるだろうか。
創造的な逸脱をするには相当な勇気が要る。勇気だけではダメで、そもそもの基本ができていなくてはならない。そして、最後まで自分の信ずるスタイルを依怙地なまでに貫くことも大事だ。スポーツにせよ、ビジネスにせよ、私生活にせよ、先行きの予測できない不安定な状況に身を置いても自分をしっかりと保ち、流れの中から状況を、しかも個の表現としてつくりだす、そしてそれを面白がる―――そんなたくましきマインドがいまの日本人(特に若い世代)にもっともっとほしい。
日本人は古来、形式を重んじ、型や枠に沿って行動するところに美意識を見出してきた。しかし、伝統芸能の世界で口にされる「守・破・離」という言葉が示すように、「守」は修行のほんの第一段階でしかない。師は弟子たちに、あくまで「破り離れよ」と教えているのだ。 「破・離」とは、予定調和の創造的破壊、既定路線からの創造的逸脱にほかならない。
創造的に逸脱するたくましさを涵養するために、社会ができること、家庭ができること、学校ができること、職場ができることは何だろう?―――たぶんその答えもまた型どおりの教育方法ではだめなのだろう。そのために、教育サービスづくりを生業とする私も創造的逸脱を楽しみながらアイデアを生み出し実行していきたいと思っている。
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2010.03.20
2015.12.13
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。