あなたのいまやっているその努力や精進は、将来に「グラン・ジュテ」(大きな跳躍)を呼び起こすのだろうか? 世の中には、努力が結果として報われる人もいればそうでない人もいる。「報われる人生」のためには何が重要なのか。
下図を見てほしい。私たちは現在から一瞬先の未来のことは予測できない。
パターンAのように、あとどれくらいのタイミングで、あとどれくらいの努力をつぎ込めば、グラン・ジュテが起きてくれるかはわからない。1年後か5年後か、いや、場合によっては明日なのかもしれない。
いや、ひょっとすると永遠に来ないかもしれない・・・(パターンB)
いや、そう考えている矢先、まったく努力などしない隣の能天気人間が、あっさりと成功を収めてしまうことだってある。(パターンC)
*ちなみに、Cの場合のジャンプアップは、グラン・ジュテというより「ラッキー・リープ」(幸運な跳躍)と名づけるべきものだ。ラッキー・リープした人間は、跳躍した分の中身が伴っていないので、事後にそこを埋める努力をしないと、身を持ち崩すことが多い。
◇ ◇ ◇ ◇
さて、ここから本記事の大事な結論に移ろう。
私たちは、物事を自分の理想に近づけようと努力をする。特に仕事上の目標や人生の目的(夢や志)を達成するためには、相当大きな、そして継続的な努力を要する。しかし、その努力が“結果として”報われるがどうかは、残念ながら誰にもわからない。
血のにじむような努力をした人でも、それが報われなかった事例を私たちは周りで多く目にしている。かといって、この世の神様は非情だと嘆いてみてもしょうがない(神様は非情的でもなく、逆に同情的でもない。人間の情に関係なく、因果に透徹なだけだ) 。
そうしたことを前提として、大事なことが2つある。
○ひとつめ:
努力の結果の形が最終的にわからないにしても、結果を出してやるという執念で努力をする。つまり「人事を尽くして天命を待つ」の気構えで事に当たること。結果に執念を持たない努力は惰性になる。
○ふたつめ:
その努力が“プロセス”として報われるようにする。このことは少しわかりにくいので説明しよう。
努力の報われ方には2種類ある。一つは、「結果として報われる」こと。つまりその努力の後に、何かしら意図する形・現象が得られること。
もう一つは、「プロセスとして報われる」こと。これは、その努力という行為そのものが自分への大きな報酬となっていて、結果いかんに関わらず、すでにやっている最中で報われている状態をいう。
例えば、私たちが何かのボランティア活動に汗を流したとしよう。そのとき、私たちはその行為の結果に拘泥しない。それをやったことによって、どれだけの人に有難うを言われたとか、多少のお礼金をもらえたとか、そういったことは主たる関心ではなく、ともかく自分が意義を感じた行為をやったことに対し充足感を覚える。これがプロセスとして報われている姿である。
だから、大事なことの2つめは、努力しようとする行為に意味を付与することだ。そこに意味を見出しているかぎり、それは「やりがいのある努力」になり、結果がどうあれ自分は報われる。
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2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。